堀尾吉晴(ほりお・よしはる) 1544〜1611

堀尾吉久の子。尾張国に生まれる。幼名を仁王、通称は小太郎・茂助。可晴とも書き、吉直・吉定ともいう。
はじめ織田信長に仕えたが、やがて羽柴秀吉に属す。秀吉に従って石山本願寺攻め、中国経略の諸戦、山崎の合戦賤ヶ岳の合戦などで功名をあげ、天正11年(1583)に若狭国高浜1万7千石に封じられた。
天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦にも参陣し、若狭国坂木で2万石。
天正13年(1585)には近江国佐和山4万石を領し、九州征伐後に従五位下・帯刀先生に叙位・任官、豊臣の姓を授けられた。
吉晴は、普段は温厚で、その容貌が一見すると女のように優しかったことから『仏の茂助』と呼ばれるほどだった。しかし、これがいざ戦場に出ると一変、鬼神の如き活躍を見せたという。また理非曲直を争うときは一歩も譲らなかったという。
天正18年(1590)の
小田原征伐ののちに遠江国浜松城主12万石となったが、この戦役において伊豆国の山中城を攻めたとき(山中城の戦い)、吉晴は絶好の地に陣を取った。しかし、それを見た中村一氏豊臣秀次に頼み込んでその場所に替えてもらったのである。結果、一氏は山中城一番乗りの手柄を挙げた。これに吉晴は憤慨、秀次の前に出ると、勝手に陣場を替えられた憤懣を遠慮なく言い立て、その場にいた者たちがなだめるのも聞かずに散々に罵り、刺し違える構えさえ見せたという。
秀吉の死後は豊臣氏の重鎮として生駒親正・中村一氏とともに重きをなし、慶長3年(1598)8月、徳川家康石田三成をはじめとする五奉行らとの対立には仲介して和議を調えた。
翌慶長4年(1599)10月に隠退して家督を嗣子の忠氏に譲り、隠居料として別封で越前国府中に5万石を受けた。
関ヶ原の合戦に先立つ慶長5年(1600)7月、東軍に味方して石田三成の拠る近江国佐和山や北陸地方の動向を探ろうと浜松を発った。
そのとき、こんな出来事があった。三河国池鯉鮒(ちりう=今の知立)にて親交の深かった三河国刈屋城主・水野忠重と元美濃国加賀井城主・加賀井重望とともに忠重の宿で宴を張ったのだが、その席上の口論から(一説には石田三成の命を受けて)重望が忠重を斬殺、吉晴は創傷を受けた。吉晴は応戦して重望を斬り倒したが、騒ぎを聞きつけて駆けつけた水野の家臣に忠重・重望殺害の犯人との誤解を受け、闇夜の中を遁走したという。のちに吉晴の無罪は判明した。
しかし、このときに受けた傷のために関ヶ原の合戦には出陣できず、代わって忠氏が参陣することとなった。
関ヶ原の役後は出雲国月山富田城主として出雲・隠岐国で24万石を領有。しかし慶長9年(1604)、家督の忠氏が早世したために忠氏の遺児・忠晴を補佐して国政をみた。
慶長12年(1607)より松江城の築城に着手したが、完成目前の慶長16年(1611)6月17日、出雲国広瀬富田で病死した。享年68。法名は法雲院前佩帯松庭世栢。