天正17年(1589)11月24日、関白・羽柴秀吉は関東地方に盤踞する北条氏に宣戦を布告、ここに小田原征伐が決行されることとなった。 北条氏側でも秀吉との対決は避け得ないものと予測していたようであり、3年ほど前から諸城郭の修理・拡張や兵糧の備蓄、軍勢の動員態勢の強化といった準備を整えつつあった。 長い評定の末に北条氏では籠城策を採ることが決まり、箱根山を北条氏の本城・相模国小田原城の防衛線に設定。その重要拠点として駿河・相模国境の足柄城、伊豆国の韮山城が強化され、さらには山中城を新たに築いて迎撃に臨むこととなった。
東海道筋を扼す山中城は、北条氏の筆頭家老である松田憲秀の甥・松田康長が城将として指揮を執り、そこに北条氏一門で相模国玉縄城主の北条氏勝が援将として入っていた。このことからも、防衛拠点として山中城が重視されていたことがうかがわれる。守兵は4〜5千ほどだったという。
対する秀吉軍は総勢で22万の軍勢を擁したとされるが、この山中城攻めには豊臣秀次を総大将に任じ、本隊の将として中村一氏・田中吉政・堀尾吉晴・山内一豊・一柳直末ら、別働隊として堀秀政・丹羽長重らが配され、その兵力は6万8千ほどであった。
山中城攻めは天正18年(1590)3月29日に開始された。
特に著しい戦功を挙げたのが中村一氏の軍勢で、その先陣を務めた渡辺了(実名よりも通称の勘兵衛の名が有名)が華々しい活躍で戦端を切り開き、これに続いて圧倒的な兵力による総攻撃を受けて山中城は陥落した。北条勢では松田康長以下一千余の兵が討ち取られたが、寄せ手でも一柳直末が戦死した。援軍として入城していた北条氏勝は、脱出を果たして自城の玉縄城に帰還しているが、のちに降伏している。
防衛の要として築かれた山中城であったが、わずか半日ほどの戦闘で攻略されたことで羽柴勢の強大さを思い知らされることになり、北条勢ではこれ以後、支城の自落や開城が相次ぐこととなっていくのである。