田中吉政(たなか・よしまさ) 1548〜1609

近江国高島郡田中村の出身。通称を久兵衛。初名は長政。宇竹・久次・宗政と称す。兵部大輔・侍従・筑後守・従四位下。洗礼名はパルトロメヨ。
若党として宮部継潤に仕え、処世の才を認められ、1千5百石を与えられた。のちに羽柴秀吉の命令で豊臣秀次の家老となり、5千石を領した。
天正16年(1588)3月には従五位下・兵部大輔に叙位・任官、近江国八幡山城3万石の領主となった。
小田原征伐後の天正18年(1590)10月に三河国岡崎城5万7千石に移封、文禄3年(1594)には三河国に隠居分として4万石を加え、翌年8月には尾張国知多郡の豊臣氏直轄領3万石の代官となる。
慶長元年(1596)、秀次に諫言していたという理由で加増されて、子・吉次の分と併せて10万石となった。同時に、秀吉より諱を許されて吉政と名乗った。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役には東軍(徳川方)に加担、岐阜城の戦い・関ヶ原の合戦石田三成の居城である佐和山城攻めと参加し、9月23日に潜伏中の三成を捕らえた功績を賞されて、32万5千石の筑後国柳川城主にまで出世、従四位下・侍従に列した。
領内の河川改修をはじめとする治水工事や産業振興に努め、自らもキリスト教に帰依するなど、領内のキリスト教徒を保護した。
慶長14年(1609)2月18日、江戸へと上る途中の伏見の宿で急死した。62歳。法号は崇巌道越円光院。