山内一豊(やまのうち・かずとよ) 1546〜1605

山内盛豊の二男。尾張国葉栗郡の出身。幼名は辰之助。通称は猪(伊)右衛門。対馬守・土佐守・従四位下。
父と共に尾張国岩倉の織田敏信・信安に仕え、織田信長とは対立していたが、父の盛豊が戦死すると母と共に野に降って家臣・祖父江勘左衛門の庇護を受け、永禄3年(1560)頃には美濃国の牧村政倫、ついで近江国勢多城主・山岡景隆に属し、永禄末年頃より元亀年間のうちに信長に仕えるようになった。
賢妻と称される妻・千代を娶ったのは元亀年間頃である。天正9年(1581)のことと思われるが、安土城下に住んでいた頃に駿馬を秘蔵の黄金10両で購入する、一豊の妻の広く知られた話が生まれた。
元亀元年(1570)の姉川の合戦に従軍、天正元年(1573)の越前国一向一揆鎮圧では羽柴秀吉に属して功を挙げて、近江国唐国で4百石を与えられた。
天正3年(1575)の長篠の合戦、天正5年(1577)の播磨国上月城攻めでも功を挙げ、2千石を与えられた。
その後も三木城攻め、有岡城攻め、鳥取城攻め高松城攻めに従軍。
天正10年(1582)の本能寺の変ののちには秀吉に属し、山崎の合戦にも従軍。9月には秀吉の黄母衣衆として播磨国印南郡で5百石を加増されている。
天正11年(1583)には秀吉に従って伊勢国侵攻、越前国の柴田勝家攻めなどに従軍している。
天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦にも勲功があり、近江国高島郡で5千石を加増された。
天正13年(1585)の紀伊征伐にも参陣、6月に若狭国高浜城で1万9千8百石を与えられ、同年の閏8月には近江国長浜城主となって2万石、さらに1万石の秀吉直轄領の代官となって都合3万石の軍役を勤めた。
天正18年(1590)の小田原征伐にも従軍、この戦役後に遠江国掛川城主となり、遠江国相良・埴原(榛原)で3万石、佐野郡内で2万石、計5万石を領した。また遠江国周智郡一宮で約1万2千石の蔵入地(秀吉の直轄領)も管理した。
朝鮮出兵時には京都留守居役を勤めた。
秀吉の死後は徳川家康に誼を通じ、慶長5年(1600)の関ヶ原の役において、下野国小山で「石田三成挙兵」の報を得た家康が上方へ向けて兵を引き返す際、行軍路にあたる遠江国の領地と掛川城を家康に献じ、東軍に属した。この一豊の振る舞いに東海道筋に城を持つ将は、いずれも一豊に倣ったという。この功により関ヶ原の役後は、土佐一国20万石を与えられた。
慶長8年(1603)3月25日、従四位下・土佐守に叙位・任官。この年の8月、河内山城(のち高知城と改称)を居城とした。
慶長10年(1605)9月20日、高知で没した。60歳。法号は大通院心峯宗伝。墓所は高知潮江村真如寺、京都妙心寺大通院。