山岡景隆(やまおか・かげたか) 1526〜1585

山岡景之の長男。従五位下・美作守。近江国勢多城主。
はじめ足利将軍家に仕え、近江国南部の有力豪族として織田信長に対抗するが、永禄12年(1569)よりその傘下に入り、伊勢国北畠氏攻めなどに従軍した。
天正元年(1573)7月、足利義昭の乱:その2に際しては織田勢力として応戦し、これを撃破した。
天正3年(1575)の朝倉征伐:その2、天正5年(1577)の雑賀征伐にも従軍。
天正3年、信長の命を受けて勢多大橋を架け替えた。長さ180間、幅4間という規模だったという。勢多は近江国の要衝地であり、信長が安土城から諸方へ往還する際にはしばしば勢多城を宿所としている。
天正10年(1582)の本能寺の変に際しては、勢多にあったが明智光秀の誘降を拒否。勢多橋を焼失させて光秀の進路を遮り、光秀の安土への侵攻を阻止した。
のち、光秀を破った羽柴秀吉に従うが、天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦柴田勝家に内応したため、弟の景佐と共に所領を没収された。
そののちは甲賀郡に幽居し、天正13年(1585)1月14日に没した。60歳。大永5年(1525)の生れで享年を61とする説もある。