村木(むらき)城の戦い

三河国岡崎城を前線拠点として尾張国への進出を目論んでいた今川義元は、織田信長方の水野信元の守る尾張国緒川城の攻略を企てた。そしてこの攻略のための付城として、緒川城の北に村木城を築いたのである。
水野氏は、信長の父・信秀の代より今川・織田の勢力境界にありながらも織田方を貫いてきた貴重な味方であった。その危機に信長は救援することを決めたが、当の信長も清洲織田氏との抗争を抱えており、兵の動員も困難であった。居城の那古野城を手薄にすれば、背後から襲いかかられる危険があるからである。
そこで信長は、岳父の斎藤道三に援兵を依頼したのである。斎藤氏は、信秀の代には数度となく干戈を交えた敵であったが、天文17年(1548)頃に道三の娘・帰蝶(濃姫)を信長の室に迎えるという条件で和睦をしている。道三は娘婿の要請を容れ、重臣の安藤守就に1千の兵をつけて派遣した。無論、情勢の視察という任務を課すことを忘れてはいない。
信長は、安藤隊が天文23年(1554)1月20日に到着すると那古野近郷の志賀・田幡への布陣を依頼して留守居役とし、翌日には叔父・織田信光や自家兵力のほぼ総力を率いて那古野城を発向した。
那古野から南へ進めば緒川へと通ずるが、その途中の鳴海や大高、寺本の城などは今川方となっていたため、信長はこれを迂回する進路を採り、22日に熱田から舟に乗って知多半島の西岸まで渡った。この日はひどい強風だったが、信長は船頭の制止も聞き容れずに船を出させたという。
23日に緒川城に到着した信長は信元と評議し、24日の明け方には村木城攻めの行動に移った。
大手にあたる東は水野勢、西の搦手からは信光隊、そして瓶形の大堀を備えて最も攻めにくいとされる南方を信長率いる本隊が受け持った。信長隊はまず堀端から鉄砲で城の狭間を攻撃し、続けて塀を崩して城内に攻め込んだ。城方もよく防いだために約9時間にも亘る激戦となったが、午後5時頃になって城方の降参で決着がついた。寄せ手にも城方にも多数の死傷者が出て、勝ったとは言えども信長の小姓たちも大勢が討ち取られたという。

信長は翌25日に寺本城の麓に放火したのち、那古野に凱旋した。26日には留守居を頼んだ安藤守就を訪ねて礼を述べ、強風を冒しての渡海の様子や村木城攻めの次第など、戦いの一部始終を語った。斎藤道三はそれを戻った安藤から伝え聞くと、「恐るべき男、隣には嫌な奴がいるものだ」と嘆息したという。