美濃国斎藤氏の重臣。通称は平左衛門尉。範俊・定治とも名乗る。日向守・伊賀守。入道して道足と号す。美濃国本巣郡北方城主。
仕えていた斎藤義龍が一色姓を称し、家臣にも一色氏家臣の姓を名乗らせた際には伊賀氏を名乗った。
天文23年(1554)1月の村木城の戦いにおいては、斎藤道三の命を受けて織田信長への援軍として赴き、信長の居城である尾張国那古野城の留守居を務めた。
永禄7年(1564)2月6日、娘婿である竹中重治による稲葉山城の奪取に加担。城内に潜伏した重治と呼応し、2千の兵を率いて城下を制圧した。
稲葉一鉄・氏家卜全と共に「美濃三人衆」のひとりとして、主家である斎藤家を支えてきたが、斎藤龍興の代の永禄10年(1567)になると主家を見限って美濃三人衆揃って信長に内応、直後の稲葉山城攻めより従った。
永禄12年(1569)の伊勢国大河内城攻めから天正7年(1579)の摂津国有岡城攻めまで美濃衆として信長の軍役を勤仕していたが、天正8年(1580)8月17日、かつて甲斐国の武田氏に内通していたという罪をもって追放された。
天正10年(1582)6月に本能寺の変が勃発すると、その混乱に乗じて旧領回復を企てて旧城の北方城に拠って挙兵したとされ、6月8日にかつての僚友である稲葉一鉄に討たれた。法名は龍峰寺竹巌道足。