斎藤義龍(さいとう・よしたつ) 1527〜1561

美濃国稲葉山城主。通称は新九郎。初名は利尚。治部大輔・左京大夫。
身長が6尺4〜5寸(約2メートル)もあった巨漢と伝わる。
下剋上で美濃国主に成り上がった斎藤道三の長男で、母は三芳野(稲葉一鉄の姉)というが、真実は不詳ながらも美濃守護・土岐頼芸の側室だった三芳野が、頼芸の子を宿して道三に嫁したのちに生まれたのが義龍だったとも伝わる。
義龍は天文23年(1554)3月には道三の出した判物を追認する形式で判物を発給しており、この頃には家督あるいはそれに準じる地位に在ったとみられるが、道三は明智光継の娘(小見の方)を室として生まれた子(義龍には義弟)を寵愛していたため、義龍は義弟に家督が譲られて自分が廃嫡されることを危惧し、道三と不仲になったという。
弘治元年(1555)11月、義龍は叔父の長井道利と謀って2人の弟(孫四郎・喜平次)を殺害して道三と義絶し、翌月までには范可と名乗っている。この「范可」とは中国の故事に因む父殺しの代名詞であり、道三を討つ決心の現れであろう。そして翌弘治2年(1556)4月には道三と長良川で戦って敗死させて(長良川の合戦)名実ともに美濃国主となり、同年9月までには范可から高政へと改名している。
永禄元年(1558)3月前後に治部大輔に任官し、永禄2年(1559)4月に室町幕府の相伴衆に列せられた。永禄3年(1560)9月には義龍と名乗っているが、前年に相伴衆に列せられたときに室町幕府将軍・足利義輝から一字を与えられて改名したものと思われる。
また、この頃より尾張国の織田信長が攻勢を強めてくるが、これをよく防ぎ、義龍の存命中は織田勢の美濃侵攻を許すことがなかった。
永禄4年(1561)2月に左京大夫に任官し、これと時をほぼ同じくして姓を一色氏に改めたと目されているが、同年5月11日に享年35で急死した。享禄2年(1529)生まれの享年33とする説もある。病因は癩病ともいわれる。法号は雲峯玄龍居士。