長良川(ながらがわ)の合戦

下克上で美濃国の支配者に成りあがった斎藤道三には、3人の男子があった。長男の義龍、二男の孫四郎義重、三男は喜平次という。
長男の義龍だけは、2人の弟とは別腹だった。義龍の母は三芳野といい、もとは土岐頼芸の愛妾だったが道三が譲り受けたのである。やがて三芳野は男児を出産する。この男児が義龍なのだが、生まれた月日から推しはかると道三ではなく、頼芸の子らしい。それで道三は紛れもない実子の孫四郎か喜平次のどちらかに家督を譲ろうと考えていたといわれている。
が、これを知った義龍は一計を講じた。病を装って2人の弟を見舞いに来させ、そこで斬殺してしまったのである。こうして廃嫡される前に手を打って、家督相続権を確固たるものにした。
その後、結局は義龍に家督が譲られたが、道三と義龍の関係は悪化の一途を辿る。
そして弘治2年(1556)、とうとう親子間で紛争が起こるに至ったのである。
4月18日、鷺山城に陣を張った道三は、義龍のいる稲葉山城を目指して出陣した。一方の義龍もそれを迎撃しようと稲葉山城を下り、両軍は長良川を挟んで対峙した。道三方の軍勢は2千7百。それに対し、既に実質的な国主としての地位を得ていた義龍方には1万7千の兵が集まった。
こうして始まった合戦は、数に勝る義龍が圧倒的有利のまま押し進め、4月20日、ついに道三は長井忠左衛門と小牧源太の2人に首を取られ、そればかりか鼻まで削ぎ落とされてしまったという。
道三に合力するために娘婿の織田信長も尾張国より援兵を率いて駆けつけようとしたが、合戦には間に合わなかった。