斎藤道三(さいとう・どうさん) 1494?〜1556

美濃国の戦国大名。山城守・左近大夫。美濃国稲葉山城主。織田信長の岳父でもある。
『下克上』によって主を排してのし上がり、美濃一国を手に入れるにまで至った梟雄。
山城国乙訓郡西岡の牢人・松波藤原基宗の庶子といい、幼名は峰丸。11歳の頃に京都の妙覚寺で仏門に入って法蓮房と称し、その勤勉さから将来を嘱望されたというが、ある日突然に寺から姿を消し、その数年後には還俗して松波庄五郎と名乗って京都の奈良屋又兵衛の娘を娶って入り婿となって燈油商を営み、山崎屋と号した。油を売る際には枡で量って買手の壷に移すわけだが、このときに漏斗を使わず、枡から一文銭の穴を通して垂らし、油が一滴でも穴から外れたら無料にする、という奇抜な方法が大当たりを招いて大繁盛したという。
諸国で行商を行ううちに美濃国の乱れた国情に目をつけると、妙覚寺時代の法弟・日運の縁故を頼って美濃国加納城主・斎藤(豊後守)利隆の知遇を得て美濃守護・土岐政房の重臣である長井長弘(斎藤利安)に仕えることとなった。
庄五郎の武技と実務能力は家中でも評判となって土岐政房の子である土岐頼純(別名を政頼・盛頼)・頼芸兄弟に謁見する機会を得ることとなり、頼純は庄五郎を「大事を起こす曲者」と見なして近づけなかったが、弟の頼芸は大いに興味を示して寵愛したという。
永正14年(1517)に頼純が土岐氏の家督を継いだが、庄五郎は頼芸を唆して大永7年(1527)8月に夜襲策を用いて頼純を逐わせた(革手城の夜襲)。こうして土岐氏の当主となった頼芸だが、酒と女で篭絡されてしだいに庄五郎の傀儡と化していく。
庄五郎自身は、長井氏の家老・西村氏の名跡を継いで西村勘九郎正利と名乗り、天文2年(1533)(一説には享禄3年:1530)には不仲となった長井長弘を謀殺して長井家を乗っ取って小守護代となり、長井新九郎正利と名乗りを変えた。その後、守護代・斎藤氏の養子になり、長井新九郎秀龍と改め、守護代・斎藤利良の没した天文7年(1538)、その家督を相続して斎藤左近大夫利政と名乗る。
が、さすがにそれまで土岐氏に従ってきた美濃の国侍も黙っておらず、騒乱にもなりかけたが越前国の朝倉氏や近江国の六角氏の斡旋で和睦し、このときに入道して道三と号した。
しかし天文11年(1542)5月、突如として頼芸居城の大桑城を急襲(革手城の戦い)、頼芸を追放して名実共に美濃の国主の座についた。
だが嫡男・義龍との間に確執が生じ、ついには合戦となる。弘治2年(1556)の長良川の合戦において4月29日、義龍と争って敗死した。
以上が道三が1代にして成し遂げた『国盗り』とされてきた過程であるが、近年の研究では、この国盗り譚は実は道三の父とされる長井新左衛門尉と、道三の2代に亘るものであったということがほぼ確実と見られており、新左衛門尉が天文2年(1533)に死去したと目されていることから、それ以前が新左衛門尉、それ以降が道三の事績となる。
この説は『六角義賢条書写』に拠るところが大きいが、記述が永禄3年(1560)、つまり道三の死後4年ほどのものであり、信憑性は比較的高いと目されている。