美濃国の戦国大名・斎藤道三の父親と考えられる人物。別称を西村勘九郎。諱(実名)は不詳。豊後守。
かつての通説では、道三は山城国乙訓郡西岡の出身で、はじめ京都妙覚寺の僧であったが還俗して松波庄五郎と名乗り、京都奈良屋の婿となって山崎屋と号して燈油商を営み、政情の乱れた美濃国に目をつけると伝手を頼って美濃守護・土岐氏の重臣である長井長弘に仕えて頭角を顕し、はじめ長井氏重臣の西村氏の名跡を継いで西村勘九郎を名乗り、ついで不仲となった長井長弘を天文2年(1533)(一説には享禄3年:1530)に謀殺して長井氏を乗っ取って長井新九郎と名乗るとともに美濃国の小守護代(又守護代)の地位に就き、さらには天文7年(1538)には美濃守護代・斎藤氏の家督を継承、天文11年(1542)5月に美濃守護・土岐頼芸を急襲して逐い、1代にして美濃国主に成り上がったとされていたが、近年では『江濃記』『六角義賢条書写』などの史料の検討によって、前述の事績は父と子の2代に亘って為されたものであり、小守護代に就くまでの前半部分が父である新左衛門尉、それ以降が子の道三の事績であったことがほぼ確実とみられるようになっている。
天文2年(1533)3月には長井豊後守が重病になっており、同年6月には息子の規秀(道三)と世代交代していることが窺えることから、同年の死去と思われる。