土岐頼純(とき・よりずみ) 1499〜1547

美濃国の守護大名・土岐政房の嫡男。別称を政頼・盛頼。通称は二郎。美濃守・左衛門尉。美濃国革手城主。
永正14年(1517)に父・政房より家督と美濃守護職を譲られたが、弟の頼芸と不仲であったことに加え、美濃守護代・斎藤利良と美濃小守護代・長井利隆の対立とも相まって土岐家中は頼純・利良派と頼芸・利隆派に分かれての分裂抗争となった。
この分裂闘争において、頼芸の寵臣・斎藤道三が大きく威勢を伸ばし、大永7年(1527)8月には、道三を先鋒とした頼芸の軍勢によって革手城を逐われ、越前国の朝倉孝景を頼って逃亡した(革手城の夜襲)。この後、道三は頼芸をも放逐して美濃国の実質的国主となる。
天文15年(1546)、頼純は朝倉氏と共に兵を挙げ、道三を討って美濃に入らんとしたが果たせなかった。
天文16年(1547)に頼芸を支援する織田信秀と道三の講和が成立したことによって美濃国大桑城に迎えられたが、その年の11月17日に没した。毒殺によるという説もある。