稲葉一鉄(いなば・いってつ) 1515〜1588

美濃国斎藤氏の重臣。稲葉通則の六男。母は国枝正助の娘。正室は三条西公条の娘。名を通以・通朝・貞通・良通と数度に亘って替えるが、実名よりも「一鉄」の道号で広く知られる。通称は彦四郎・彦六。右京亮・伊予守。美濃国安八郡曾根城主。
稲葉氏は伊予国河野氏の末裔とされ、はじめ越智姓を名乗っていたという。
幼時は美濃国長良崇福寺で喝食となっていたが、大永5年(1525)8月の石津郡牧田の合戦で父と兄5人が討死したため還俗し、曾根城主を継いだ。
はじめ美濃守護の土岐頼芸、ついで斎藤道三義龍龍興の3代に亘って属し、安藤守就氏家卜全と共に「美濃三人衆」として名を馳せた。
永禄10年(1567)頃より安藤・氏家と共に尾張国の織田信長に降り、信長の美濃国侵攻の足がかりを作った。以後は信長に臣従して近江・摂津・伊勢・越前国の諸戦に従軍し、とくに元亀元年(1570)の姉川の合戦においては徳川家康を援護して浅井長政隊を崩すなどの大功を立てた。
石山合戦・朝倉攻め・伊勢長島一向一揆:その3長篠の合戦・美濃国岩村城の戦いなどでも戦功があった。
天正2年(1574)頃に入道して一鉄と号し、天正7年(1579)に家督を子・貞通に譲り、大野郡清水城に移った。
信長は一時、一鉄の存在に不安を感じて殺そうとし、殺害するために茶席に招いたおり、床に飾られた禅僧・虚堂智愚の墨蹟を読みながら自己の無実を述べたため、その文才を見出して思いとどまり、のちには相互に理解するに至ったという。
織田家崩壊後は美濃国において自立を目論む動きを見せたが、やがては羽柴秀吉に仕え、天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦で善戦した。
天正13年(1585)頃、三位法印に叙された。
天正16年(1588)11月19日、清水城で没した。享年74。法名は清光院一鉄宗勢。永正13年(1516)生れの享年73とする説もある。