竹中重治(たけなか・しげはる) 1544〜1579

織田家臣。通称は半兵衛。父は竹中重元。天文13年(1544)、美濃国に生まれる。名乗りを「重虎」としていた時期もある。美濃国菩提山城主。
父・重元は美濃国稲葉山城主・斎藤龍興に仕え、重元の没後にあとを継いだ重治も斎藤氏に属していたが、若年であることや女性然とした風貌などから侮蔑され、永禄7年(1564)2月に岳父の安藤守就の協力を得て、弟の重矩らと共にわずか十数人で稲葉山城を龍興から奪取した。こののちに織田信長が数度に亘って稲葉山城の譲渡を申し入れたが固辞し、再び龍興に城を返した。
その後は近江国の浅井長政に出仕した。
永禄10年(1567)に信長が美濃国を平定すると信長に仕え、与力として羽柴秀吉に属した。ここで謀将として名を馳せ、元亀元年(1570)の姉川の合戦や浅井氏攻撃、元亀2年(1571)の横山城の戦い、天正3年(1575)の長篠の合戦などで羽柴隊の参謀役として軍功を挙げる。
智謀に長けた武将で、その名声は「昔楠木(楠木正成)、今竹中」と称せられた。
香取神道流の兵法を会得していたといわれるが、容貌は線が細く「色白で夫人の如し」と伝わる。軍装も、馬の裏側の皮具足に木綿の羽織を身につけ、兜の前立ては一ノ谷という地味なものであったという。
以後も参謀として秀吉に従軍。とくに播磨国三木城の包囲作戦は、重治の献策によるものだったという。しかし天正7年(1579)4月、三木城攻めの最中に発病し、一時は京都で療養したが望んで陣場に戻り、6月13日に陣中で没した。36歳。結核だったという。このとき、秀吉が重治を惜しんで深く嘆いたという話は有名。法名は深竜水徹。
7歳の遺児・重門は秀吉に撫育された。
また、黒田孝高荒木村重によって摂津国有岡城に幽閉されたとき、信長は孝高が村重に同心して寝返ったと思い、人質にとっていた松寿丸(のちの黒田長政)を殺すように秀吉に命じた。それを聞いた重治はその役目を引き受け、独断で松寿丸を匿った。やがて有岡城は落城、孝高は助け出されるわけだが、重治はすでに病没していた。長政は長じてもこの恩を忘れることなく、竹中一族を手厚く庇護したという。
智謀・軍略に長けた武将として三国志の英傑・諸葛孔明になぞらえられ、秀吉に三顧の礼をもって迎えられたとする逸話もあるが、それは虚構のようである。しかし、のちに天下を掌握した秀吉の創業期において蜂須賀正勝・前野長康らと共に重きをなした武将であり、的確な方策を示して数々の功績を残したことは事実である。