蜂須賀正勝(はちすか・まさかつ) 1526〜1586

尾張国海東郡蜂須賀村の出身。父は蜂須賀正利。幼名は小六。通称は彦右衛門。修理大夫。
稲田大炊助・青山新七らと並ぶ土豪の首領。木曽川筋川並衆の蜂須賀衆を率いて川筋を掌握したという。
はじめ美濃国の斎藤道三、次いで尾張国の岩倉織田信賢に仕え、続いて犬山織田信清から織田信長に従った。永禄3年(1560)の桶狭間の合戦にも従軍し、首級1つをあげたという。
のちに与力として羽柴秀吉に属し、美濃国墨俣での築塁、越前国手筒山城や金ヶ崎城、近江国横山城の攻略、長島一向一揆の鎮定などに功を挙げた。
元亀2年(1571)2月には浅井長政に属す磯野員昌の守る近江国佐和山城を攻略、その翌年(1573)には羽柴秀長竹中重治らと共に宮部継潤を誘降しており、秀吉の片腕ともいうべき働きを見せる。
天正元年(1573)の小谷城の戦い:その2にも従軍、戦後に近江国長浜の内で秀吉より3千2百石を与えられた。
天正5年(1577)頃より謹慎中の秀吉に代わって竹中重治らと共に播磨国へ出陣、豪族たちの懐柔に尽力した。天正9年(1581)には三木城攻略の功により播磨国龍野城主となる。
その後の因幡国鳥取城の戦い、備中国高松城の水攻め賤ヶ岳の合戦にも参陣、小牧・長久手の合戦においては畿内の重鎮として大坂城に在番するなど、秀吉に軍事面・政治面ともに信任が厚かった。
天正11年(1583)、大坂に住まう糧料として丹波国・河内国のうちに5千石を与えられた。
天正13年(1585)の紀伊征伐に従軍。その後の四国征伐にも病をおして参陣し、長宗我部元親を説得、秀吉に降伏させた。この功で阿波一国を与えられたが辞退し、息子の家政が拝領した。
天正14年(1586)5月22日、大坂にて没する。享年61。法名は良巖浄張大居士。
正勝は武功譚も多いが、その本質はむしろ政略家である。秀吉の合戦の方向性は、相手を殺さずに降伏させるというものだったが、正勝はその実行に尽力した。中国経略において備前国・備中国・美作国・伯耆国の諸城を攻めた際、そのほとんどは正勝の外交折衝で城の引渡しを成功させている。
かつて正勝の治めていた美濃国川並の地は水運流通の要衝であり、このときに培った経済感覚を活かし、度重なる合戦で疲弊した国力を取り戻すために柔軟な経済政策を施した。また、瀬戸内海の海賊衆の取り込みも正勝の功績だったという。
少年時代の秀吉・日吉丸を矢作橋で助けたという逸話があるが、その当時は矢作橋はない(渡しだった)ため、その話は虚構であると見られている。