竹中重門(たけなか・しげかど) 1573〜1631

羽柴家臣。羽柴秀吉の参謀として著名な竹中重治(半兵衛)の子。幼名は吉助。初名は重隆か。従五位下・丹後守。母は安藤守就の娘、妻は父・重治の親友である加藤光泰の娘。
天正7年(1579)に父が死去したときにはまだ幼少であったため、一族の竹中重利が後見となった。
天正12年(1584)、12歳で小牧・長久手の合戦に参加。
天正16年(1588)に家督を相続、従五位下・丹後守に叙位・任官。
天正17年(1589)11月、美濃国不破郡内において5千石の所領を安堵される。
天正18年(1590)の小田原征伐には秀吉に従って参陣し、天正20年(=文禄元年:1592)からの文禄の役では肥前国名護屋城に駐屯した。
文禄3年(1595)12月には河内国大県郡畑村・安宿郡玉手村で1千石を加増された。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役に際しては、はじめ西軍に属して稲葉貞通・加藤貞泰らと共に尾張国犬山城主・石川貞清を援助していたが、早くから徳川家の武将・井伊直政に密書を送って東軍に通じていた。9月15日の関ヶ原の合戦当日は黒田長政と共に東軍右縦隊の先鋒となり、西軍の大将・石田三成隊の側面を衝いてこれを破り、合戦後の19日には粕子山中で敵将の小西行長を生け捕った。これらの功により徳川家康から感状と行長の太刀である光忠を賜り、また戦場となった関ヶ原が竹中領であったため、米1千石が下されている。
慶長19年(1614)からの大坂冬の陣夏の陣にも参陣した。
寛永2年(1625)10月、美濃国不破、河内国の大県・安宿の3郡のうちで6千石を安堵された。
寛永8年(1631)閏10月9日、江戸屋敷で病死した。59歳。法号は光徳院山渓出堂。
和漢の学を林羅山に学び、歌道・文筆に長じていた。秀吉の事蹟を記した『豊鑑』の著者である。