井伊直政(いい・なおまさ) 1561〜1602

徳川家臣。井伊直親の子。母は奥山朝利の女。永禄4年(1561)2月19日、遠江国井伊谷に生れる。幼名ははじめ虎松、ついで万千代。従四位下・兵部少輔・侍従。
永禄5年(1562)に父・直親が松平元康(のちの徳川家康)・織田信長と結んで謀叛を企てているとの嫌疑をかけられて今川氏真に誅されると、難を逃れるため井伊谷を離れたが、天正3年(1575)より徳川家康に召し抱えられ、小姓として仕えた。この仕官に際して名を万千代と改めたとみられる。
武勇・智謀共に優れ、『徳川四天王』のひとりに数えられ、常に先鋒を務めた。他の譜代衆に負けじと、常に自ら先陣を切って死に物狂いで戦ったという。
天正9年(1581)、高天神城の戦い:その2に参加。翌年(1582)6月の本能寺の変に際しては家康に近侍して堺にあり、伊賀越えに従った。
同年7月に徳川氏が甲斐国への進出を企てた際、徳川氏の使者として北条氏との和睦交渉にあたった。この交渉において甲斐国は徳川氏の領有するところとなり、直政には武田氏旧臣の120名が配下に加えられたが、武田氏の勇将・飯富虎昌に代表される『赤備え』を継承した。また、この年には兵部少輔の官途を称しているが、これも虎昌にあやかったものという。
天正12年(1584)4月、小牧・長久手の合戦に先鋒として出陣し、池田恒興らの軍勢を破った。
天正13年(1585)には信濃国上田城に拠る真田昌幸を攻め(上田城の戦い)、翌年(1586)の家康の上洛には羽柴秀吉から送られた人質の大政所(秀吉の母)を警護した。
天正16年(1588)の聚楽第行幸のとき、秀吉の斡旋で従五位下・侍従となる。これは陪臣としては破格の待遇だったという。
天正18年(1590)の小田原征伐を経て徳川氏が関東に入部した際には上野国箕輪城主として12万石の所領を与えられ、徳川家臣団において随一の大名となった。
天正20年(=文禄元年:1592)からの文禄の役に際しては、出征せずに江戸城の留守居役を務めている。
慶長3年(1598)10月、居城を和田へと移し、高崎城と改称する。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役には本多忠勝と共に東軍先鋒の軍監として西上、関ヶ原の合戦では宇喜多秀家隊に突きかかって西軍崩壊のきっかけを作る活躍を見せ、のちには撤兵する島津隊を追撃、副将格の島津豊久を討ち取った(関ヶ原撤退戦)。また戦後処理として毛利輝元との講和や山内一豊の土佐入国の援助を行っている。これらの功により石田三成の旧城・近江国佐和山で18万石を与えられた。
翌慶長6年(1601)、従四位下に叙任される。しかし慶長7年(1602)2月1日、関ヶ原の合戦で受けた戦傷がもとで死去した。享年42。法号は清涼泰安祥寿院。