関ヶ原撤退戦

慶長5年(1600)6月18日、徳川家康は陸奥国会津の上杉氏を征伐するため、軍勢を率いて京都を発向した(会津上杉征伐)。これに先立つ4月下旬、家康は自分が出征している間に石田三成が挙兵するであろうことを予見し、京都に参勤していた薩摩国の大名・島津義弘に伏見城の留守を依頼している。
果たして7月上旬、三成は居城・近江国佐和山城にて挙兵に及んだ。三成は毛利輝元を総大将に迎え、自らはその名代となって反家康軍(西軍)の糾合に徹したのである。三成の檄に応じた軍勢は西国の大名が中心で、続々と畿内に集結を始めた。
このような情勢の中、義弘は家康の下命に従って伏見城の防衛にあたろうとしたが、伏見城の守将・鳥居元忠によって入城を再三拒否され、やむなく西軍に属すこととなった。
この時点で義弘が率いていた手勢は2百人ほどであったといい、入城できなければ西軍の軍勢に壊滅させられることは明らかである。また島津氏は天正15年(1587)の九州征伐の敗北による大幅な領土の削減、さらには文禄慶長の役の軍役のたため、領国経営は破綻寸前であった。その窮状を三成の指南によって乗り切ったという経緯があり、島津氏の恩人ともいえる三成の要請を固辞できなかったのであろう。
ともあれ義弘は西軍諸将と共に伏見城を攻め、8月1日に陥落させた(伏見城の戦い)。
一方、三成の挙兵を知った家康は会津征伐に従軍させていた諸大名の軍勢をそのまま自らの陣営(東軍)として軍勢を転じ、畿内へと向かった。そして9月15日、美濃国関ヶ原において両勢力が激突したのである(関ヶ原の合戦)。

この日の島津勢は積極的な戦闘をせず、寄せてくる敵を撃退するのみであった。義弘は伏見城の留守居役が決まると本国に軍勢の派遣を重ねて要請していたが、国元では豊臣政権に反発する雰囲気も強く、資金繰りもままならないことなどから軍勢の派遣が滞り、三々五々に到着するという状況であったが、この前日までには1千人ほどの兵数となっている。
午前8時頃に戦端が開かれたこの合戦は、はじめのうちこそ互角であったが、正午頃に小早川秀秋が東軍へ寝返ったことよって、戦況は一気に東軍に傾いたのである。
これによって勢いづいた東軍勢は、主将の石田三成を目指して殺到した。これを迎撃すべく三成は義弘の甥・島津豊久の陣に家臣を遣わして戦闘への参加を促したが、豊久は承知の返事をするのみで動こうとしなかった。三成は重ねて督促したが、使者が馬上から口上を述べたために殺気立った島津勢に追い返された。その後に三成自ら参じて命じたが、豊久は「今日は各々が自在に戦う模様である。貴殿もそのように御心得あるべし」と答えたため、三成も諦めて自陣へ戻ったという。
事実、この西軍勢は兵数こそ揃ったものの連携が取れておらず、戦う以前から東軍へ内応している者もあり、それぞれの軍勢が生き残るために死力を尽くすのみの戦いであった。
午後1時頃には既に大勢が決しており、石田三成のほか宇喜多秀家小西行長らの軍勢も潰えて敗走していた。残されたのは島津勢のみである。この状況を見て義弘は「薩摩勢5千ほどあれば、今日の合戦には勝てたものを」と言ったという。
島津勢の布陣は先鋒に島津豊久、先鋒の右備が山田有栄、その後ろに義弘の本隊である。しかし敗走する兵によって分断され、それを追討する小早川勢が迫る。
わずかに思案した義弘は手勢をまとめ、戦場の真ん中を東へ向けて突破することを下知した。勝ちに乗じて南から迫る小早川勢にあたるよりも、まだ戦闘の続く地帯を突破するほうが可能性があると判断したのである。それまで分断されていた山田有栄隊と合流を果たした島津本隊は義弘の下知に一丸となり、決死の戦場突破に挑んだのである。

戦場の突破による撤退を開始した島津勢と最初に遭遇したのは福島正則の軍勢であった。正則は勇猛で知られた武将であるが、抜刀し、怒声にも似た激しい気迫を散らす島津勢に手出しを控えさせた。
福島勢の鼻先を掠めるように押し通った島津勢の眼前に家康本陣が迫る。義弘は進路を南東に取ってこれを避けようとしたが、井伊直政本多忠勝・松平忠吉の軍勢が追撃してきたのである。
島津勢は踏みとどまってこの追撃を振り払おうとしたが、少勢であったために周囲を井伊隊に囲まれた。しかし乱戦の中、川上忠兄隊の柏木源藤の放った鉄砲が直政を撃ち抜き、直政は落馬。義弘はこの一瞬の停滞を見逃さず、井伊隊を切り崩して駆け抜けた。
その次には本多忠勝隊が迫る。ここで義弘の重臣・長寿院盛淳が自ら殿軍となって本多隊に攻め入った。盛淳は手勢を叱咤し、一度は本多隊を押し戻す。この時間稼ぎに成功し、島津本隊が本多隊を振り払ったことを確認したのち、島津兵庫頭(義弘)と名乗りを挙げて討死を遂げた。さらにはようやく本隊を見つけた島津豊久も義弘を離脱させるために新たな殿軍となって追撃軍の中に攻め込み、牧田烏頭坂の辺りで戦死した。

多数の重臣や将兵の命と引き換えに、義弘は戦場からの離脱突破に辛くも成功した。関ヶ原での合戦を迎えるまえには1千人ほどいた軍勢も、50人ほどしか残れなかったのである。
義弘ははじめ関ヶ原の東方にある大垣城に籠城することを考えたようだが、城から火が上がっているのを見て諦め、伊勢路から薩摩国を目指した。
15日の夜には鈴鹿峠を越えて伊勢国の関、のち伊賀国の上野を経て16日の夜には伊賀国信楽に至っている。17日に和泉国、18日に摂津国に入り、商人・塩屋孫右衛門に匿われて堺に潜伏、22日の朝には薩摩国へ向かう船に乗り、帰国したのである。