伏見(ふしみ)城の戦い

慶長5年(1600)6月、徳川家康が会津の上杉征伐のために東下するにあたって京都の伏見城に立ち寄り、鳥居元忠に城将となることを命じた。このとき家康は胸中に、自分が会津に向かっているうちに石田三成が挙兵するであろうことを予期し、それを期待していたといわれる。しかしそれが現実のものとなるとすると、石田方勢力諸将に囲まれたこの伏見城が第一に戦火を浴びることは明らかであり、いわば捨て城となる。それを承知のうえで元忠に生贄となることを頼んだのであった。
元忠はそれを覚悟のうえ承諾し、さらには「今は会津への出馬こそ重大事でござるゆえ、1人でも1騎でも多く召し連れなされませ」と、逆に元忠と共に伏見城の守将を務めていた内藤家長・松平家忠をも連れて行くように進言した。暗に「生贄はそれがし1人で結構」と含ませたのである。が、さすがに家康はこれを容れることはできなかった。
この夜、元忠と家康は幼い頃の思い出話などで時を過ごし、今生の別れをかみしめた。そして退出する際、「今宵が今生の暇乞いになります」との元忠の言葉に、家康は涙したという。

果たしてこののちの7月、挙兵した石田三成らの西軍は総勢4万の兵で伏見城を攻囲した。兵を率いる武将も宇喜多秀家小早川秀秋島津義弘・毛利秀元・鍋島勝茂・長宗我部盛親小西行長ら40人以上という規模のものだった。対する伏見城は2千足らずの寡兵でこれに臨んだが、城兵の士気はすこぶる高く、西軍は18日、圧倒的な兵力の差を背景に降伏勧告を行ったが、元忠は「家康公の御命令ならともかく、他の誰からも指図は受けぬ」と、頑として応じなかった。
またこれに先立って、島津義弘は家康より伏見城の留守を頼まれていたために兵を率いて参じていたが、元忠は入城を許さず、逆に発砲してまで追い払ったという。それで島津隊は身の置き所がなくなってしまったため、やむなく西軍に与することとなった。

19日午後より銃撃戦を中心に戦いが始まったが、決死の覚悟のもとに一丸となって戦う伏見城はなかなか落ちなかった。攻めあぐねた西軍方は忍びの者を放って内応者を作り、それでようやく突入のきっかけを見出したという。
7月30日、西軍の総攻撃が開始された。鍋島隊が先陣を切って城内に突入、それに島津隊が続く。西軍諸将の猛攻の前に松平家忠・内藤家長も相次いで討たれ、残るは本丸を守る元忠のみとなった。元忠は最後の最後まで自刃を拒否、1人でも多くの敵兵を討つべく命のある限り戦ったという。そしてとうとう8月1日に鳥居元忠は討死、伏見城は落城した。
4万もの軍勢を14日間足止めさせ、死傷者3千人と引き換えのことだった。
このときの伏見城の床板はのちに再建された養源寺の天井板に使われ、黙して激戦を物語る『血天井』として有名である。