鳥居元忠(とりい・もとただ) 1539〜1600

徳川(松平)家臣。鳥居忠吉の三男。通称は彦右衛門尉。
父と同様に松平氏に仕え、天文20年(1551)13歳のとき、駿府で今川氏への人質となっていた松平竹千代(のちの徳川家康)に随従した。その後、永禄元年(1558)の寺部城攻め、3年(1560)の大高城の兵糧搬入・守備(桶狭間の合戦における任務)、元亀元年(1570)の姉川の合戦、3年(1572)の三方ヶ原の合戦など、数々の合戦において武功を顕した。
元亀3年(1572)3月25日、父・忠吉が死去、長兄の忠宗は早世しており、次兄の本翁意伯は出家していたため、元忠が家督を継いだ。
天正3年(1575)の諏訪原城攻め(三方ヶ原の合戦とする説もある)では銃弾にあたって左足が不自由になった。同年の長篠の合戦、8年(1580)の田中城・高天神城攻め、10年(1582)の武田征伐、13年(1585)の上田城攻めに従い、天正18年(1590)の小田原征伐では岩槻城を落とした。
徳川家の関東移封後は下総国矢作4万石を与えられた。
慶長5年(1600)、関ヶ原の役の緒戦には死を覚悟のうえで伏見城の守将となり、松平家忠・松平近正・内藤家長らと共に籠城、石田三成ら西軍の降伏勧告を断乎として拒絶し、8月1日に壮烈な討死を遂げた(伏見城の戦い)。このときの伏見城の床板は養源寺の本堂の天井板に使われており、『血天井』と呼ばれて有名である。
また、他家へ仕官する際に己の武功を誇る、いわば履歴書の意味合いを持つ感状を一切受け取らず、同様に官位の叙任の勧めも固辞し、生涯を無位・無官で通し、徳川氏に終生の忠誠を尽くした。