血天井(ちてんじょう)

京都三十三間堂付近にある養源寺の本堂の天井板には、黒々とした血が染み付いており、これを指していう。
これは慶長5年(1600)の関ヶ原の役の前哨戦として、鳥居元忠らが籠もる伏見城を西軍が攻めたとき(伏見城の戦い)、落城は火を見るより明らかだから降伏せよ、という降伏勧告にも応じず、ついには城を枕に玉砕した元忠をはじめとする城兵らの流した血という。
寺伝によると、この養源寺とは羽柴秀吉の側室・淀殿が亡父である浅井長政の菩提を弔うために建立した寺で、のちに焼失したものを淀殿の妹であり、徳川2代将軍の徳川秀忠の夫人・崇源院が再建したものである。
この養源寺の再建に際して、豊臣家ゆかりの寺でもあるためにおいそれと復興させるわけにはいかないという政治的な事情があったのだが、鳥居元忠らの血痕を残す伏見城の床板をこの寺の本堂の天井に張ることで「元忠らの追善のため」という名目を立てたという。