長宗我部盛親(ちょうそがべ・もりちか) 1575〜1615

豊臣家臣。長宗我部元親の四男。幼名は千熊丸。右衛門太郎と称す。宮内少輔・土佐守。
はじめ吉良氏を継いだが、長兄の信親亡き後、香川親和津野親忠の両兄をしのいで父の寵愛を独占し、信親の娘を娶って天正16年(1588)に後嗣となった。このとき親和は悶死、親忠は幽閉されたという。
天正18年(1590)の小田原征伐、そののちの文禄慶長の役にも出陣して武功をあげた。
慶長元年(1596)11月には近習・中間などの勤務規定を定め、翌年3月には元親と連名で家法を制定した。
慶長4年(1599)5月、元親の死去により家督を継ぎ、土佐国浦戸城主となって22万石を領する。
翌年(1600)の関ヶ原の役では石田三成に誘われて西軍に属し、関ヶ原の合戦においては毛利氏と共に南宮山に陣を敷いたが、西軍が小早川秀秋隊の裏切りにあって潰走すると戦わずに帰国し、のちに井伊直政を通じて徳川家康に詫びたが、長宗我部氏の存続工作にあたっていた兄・親忠を殺してしまったために赦免は得られず、10月に所領を没収された。
のち大岩幽夢(祐夢)と号して京都に陋居し、寺子屋を開いた。
慶長19年(1614)10月、豊臣秀頼の招きで大坂城へと入城し、大坂夏の陣藤堂高虎隊と戦ったが、側面を井伊直孝の軍勢に衝かれて敗走した。
大坂落城後は山城国八幡に潜伏していたところを捕らえられ、慶長20年(=元和元年:1615)5月15日、京都三条河原で斬首された。41歳。法号は源翁宗本。