津野親忠(つの・ちかただ) 1572〜1600

長宗我部元親の三男。母は斎藤氏。通称は孫次郎。
元亀2年(1571)、土佐国高岡郡半山姫野々城主の津野定勝は家臣のため追放されて、子・勝興があとを継いだが、勝興は元親に降った。元親は親忠を養子としておくり、三宮左兵衛の女を配して津野家を継がせた。
天正13年(1585)に四国征伐を受けて元親は羽柴秀吉に降ったが、このとき親忠は人質として秀吉のもとに送られた。
文禄の役には父の元親と共に渡海し、休戦後も朝鮮に駐留していたようである。
天正14年(1586)に元親の長男・信親の戦死し、天正16年(1586)に長宗我部氏の次期家督が四男の盛親に決定してから親忠の立場は微妙なものとなる。親忠自信は家督相続の件に関して大きな不満を持たなかったようだが、嗣子になれなかったことを恨みに思っていると元親に讒言する者があり、さらには親忠が藤堂高虎と親しかったことから元親は親忠を疑い、慶長4年(1599)3月に香美郡岩村に幽閉した。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役において長宗我部氏は西軍に与したため敗軍となるが、このとき親忠は藤堂高虎を通じて徳川家康にはたらきかけ、長宗我部氏存続の内意を得ることができたという。ところが長宗我部氏重臣の久武親直は「親忠は高虎と結んで東軍に通じた気配があり、高虎の斡旋で土佐半国を与えられる内意を得た」と盛親に告げ、このために9月29日に岩村孝山寺(霊巌寺)に殺されたという。29歳。法号は雪庭宗笋。
この親忠の殺害事件は家康を怒らせることとなり、盛親の謝罪にも関わらず長宗我部氏は取り潰しとなった。