久武親直(ひさたけ・ちかなお) ?〜?

長宗我部氏重臣。久武昌源の子。久武親信の弟。通称を彦七。内蔵助。
天正10年(1582)8月の中富川の合戦では渡河時刻を主君・長宗我部元親に進言して一軍の攻撃を指揮し、勝利に貢献した。またその直後の9月には、反元親勢力を結集しようとしていた新開実綱(道善)を丈六寺に謀殺している。
兄・親信は親直を評して「長宗我部家の障りにこそなれど、役に立つ者ではない」と元親に進言しているが、親信が天正7年(1579)5月の三間表の合戦で戦死したのちの天正12年(1584)秋頃に伊予国侵攻の軍代に任じられ、宇和郡三間の攻撃に功績を挙げて長宗我部氏の伊予国制圧に大きく貢献した。
天正13年(1585)の四国征伐にあたっては、伊予国の金子・高尾城主の金子元宅と結託して防備体制の構築に尽力した。
天正14年(1586)、羽柴秀吉の大仏殿建立のための木材の伐採・搬出の監督を勤めた。このときより、吉良親実と不仲になったという。
元親長男の信親が戦死したことを受け、天正16年(1588)の長宗我部氏の後嗣決定の評議において、元親の意を汲んで四男・盛親を擁立した。吉良親実と親しい香川親和(元親二男)や津野親忠(三男)に家督を継がせるよりも、幼少の盛親(四男)の後ろ盾となって家督を継がせれば自分が実権を握れると考えたためともいわれる。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役ののち、津野親忠が藤堂高虎を通じて徳川家康に長宗我部氏存続を請うているが、これに関連して、親忠に土佐半国が与えられるかもしれないとして親忠の殺害を進言し、実際に親忠は殺害されたが、一説には親直が盛親の命令を騙って親忠殺害に及んだともいわれる。
この親忠殺害のために長宗我部氏は取り潰しとなり、主家の滅亡後は肥後国の加藤氏に仕えて1千石を与えられたが、その変節ぶりを非難されたという。