中富川(なかとみがわ)の合戦

天正3年(1575)に土佐国を統一した長宗我部元親は、阿波国南部の沿岸沿いと吉野川の渓谷沿いの双方より阿波国へと侵入、7年余にも及ぶ歳月をかけて多くの城砦を落とし、土豪の多くを切り従えていった。残るは三好勢の総帥・十河存保の拠る勝瑞城の攻略であった。
元親にとって気がかりだったのは、織田氏の動向である。織田信長ははじめ、元親に「四国切り取り勝手次第(制圧した地域を自己の所領とすることの許可)」の保証を与えていたが、四国を席捲するばかりの長宗我部勢力の増長に危惧を抱いたことや、長宗我部氏と敵対する三好氏を支援する羽柴秀吉の献策などもあって、天下統一の早期実現のためには長宗我部氏を討つという方針を固めたのであった。
天正10年(1582)5月、信長は三男の信孝および丹羽長秀を大将として、四国征伐の軍を興した。まずはその先鋒部隊として三好康長を先発させており、織田軍の四国渡海は6月2日に予定されていた。ところがその日、京都本能寺で信長が弑されたため(本能寺の変)に織田軍の渡海は中止となり、元親は危ないところで命拾いしたわけである。
変報を聞いた康長は畿内へと去り、織田軍の脅威が去った。この情勢を見て取った元親の嫡男・信親は「この機に阿波国勝瑞城を攻めるべし」と軍勢を率いて進軍を始めたが、元親は「兵に休息を与え、国力を充実させたのちに万全の配慮をもって三好氏との決戦に臨むべき」との自重論から信親を召還する。そしてこの後に岡豊城で改めて軍議を開き、重臣や一領具足らの意見を聞いたうえで戦略を練り、いよいよ阿波国の十河勢の追い出しにかかることにしたのである。

8月上旬、元親は弟の香宗我部親泰や信親をはじめとする総勢2万3千の兵を率いて岡豊城を出発。軍勢を2手に分け、一隊は親泰を将として阿波国南方より、もう1隊は長宗我部新左衛門を将とし、先に元親に降伏していた一宮城主の一宮成助(成相)と桑野高源寺城主の桑野康明を先陣として阿波国に入り、十河方の城をつぎつぎと落としていった。
元親は殿軍として6千の兵を率い、27日には全軍が吉野川南岸の中島に集結、布陣して十河勢の出方を窺っていた。
これに対して存保も勝瑞城を出て本陣を矢上の勝興寺表に構え、6千の兵を3隊に分けて中富川の対岸に布陣した。自然の要害である中富川を越されてしまうと勝瑞城の防禦に関わるからである。
翌28日に中富川を挟んでの戦いとなった。十河勢先陣の2千余が勢い勇んで渡河を始めたところ、突然に川の水かさが増して奔流となった。これは、長宗我部勢が予めこの中富川の上流を堰き止めておいて、頃合を見計らって放流するという経略を用いたのである。渡河にかかっていた十河勢は後戻りする暇もなく流され、なんとか対岸に這い上がった者も長宗我部勢の包囲を受けてつぎつぎに討たれていった。
出鼻を挫かれた十河勢は総崩れとなり、合戦が始まってから僅かの間に名のある武将54人、兵を合わせると8百人ほどの戦死者を出したという。しかし、長宗我部勢も6百余の犠牲者を出したというので、激戦であったことが窺える。
大将である存保も討死の覚悟を決めて斬り込もうとしたが、家臣に諫められて勝瑞城へと退却した。
9月21日、元親は勝瑞城も攻め落とした。敗れた存保は城を元親に明け渡して讃岐国へと逃れた。