長宗我部国親の三男。長宗我部元親・吉良親貞の実弟。通称は孫七郎。安芸守。
土佐国香美郡香宗城主の香宗我部親秀は大永6年(1526)に安芸氏と戦って敗れ、嫡子の秀義が戦死したために弟の秀通へ家督を譲っていたが、長宗我部国親の勢力が強大となるにつれて長宗我部氏との連合を企図し、これに反発した秀通を弘治2年(1556)10月に誘殺、永禄元年(1558)頃に秀通の娘婿に親泰を迎えて養嗣子とし、家督を継承させた。以後、香宗我部氏は長宗我部氏の藩屏となってその発展に大きく寄与することとなる。
永禄12年(1569)7月から8月にかけての安芸城の戦いにおいては二兄・吉良親貞と共に先陣を務め、安芸国虎を討ったのちには安芸城主となって長宗我部領東域の支配を担った。
元親の四国平定戦では阿波国東部の攻撃を担当し、天正4年(1576)に阿波国海部城主・海部宗寿を逐ったのちは海部城を預かり、阿波国東南域の軍代となった。天正7年(1579)には巧みな外交策をもって阿波国那賀郡牛岐城主の新開実綱(道善)を降伏させ、元親から牛岐城の接収を命じられている。
天正8年(1580)6月には近江国安土に赴いて阿波国岩倉城の三好式部少輔が服属したことを織田信長に告げ、三好康長との友好の斡旋を依頼した。天正10年(1582)8月の中富川の合戦では十河存保と戦って功を立て、翌年には阿波国の木津城を陥落させた。
親泰は元親の勢力伸張の過程においてその片腕となって軍事で活躍を重ねる一方で、外交や渉外においても優れた資質を発揮し、被官から元親への取り成しを司るほか、賤ヶ岳の合戦、小牧・長久手の合戦では反羽柴秀吉方に与した元親のために、柴田勝家や徳川家康・織田信雄らと秀吉包囲網の戦略体制を樹立するため交渉にあたっている。
文禄の役においては、はじめ長子の親氏が元親と共に出兵していたが、陣中に病没したために替わって出陣することとなり、その途次の文禄2年(1593)12月21日に長門国で没した。享年51。法名は明彭孤山。