長宗我部国親(ちょうそがべ・くにちか) 1504〜1560

土佐国長岡郡岡豊城主・長宗我部兼序の子。幼名は千雄丸(千王丸・千翁丸とも)。信濃守。
永正5年(1508)5月、父・兼序が本山・山田・吉良氏・大平氏ら近隣の国人領主に攻められて自害したとき(岡豊城の戦い)、兼序の命により岡豊城から逃れて土佐国幡多郡の一条房家の庇護を受けて養育された。
少年時代より長宗我部氏再興の強い意志を持ち、勉学や武芸の習熟に励んだ。7歳の時、楼閣の2階の座敷で房家が涼んでいるときに国親を傍に呼び寄せ、戯れに「ここから庭に飛び降りて見せたら家を再興してやろう」と言うと、その言葉も終わらぬうちに飛び降りて見せたという逸話が残る。
その後、房家の調停により諸領主から奪われた長宗我部氏の旧領である江村郷・廿枝郷などの返還を受け、永正15年(1518)に岡豊城に復帰し、江村郷吉田城主・吉田孝頼(周孝)の後見を受け、しだいに旧臣も帰城して長宗我部氏の再興を図るに至る。
一条房家は、国親の娘と本山茂宗の子・茂辰を婚姻させることで両家の旧怨の融和を図った。しかし国親は積極的に領土拡大を意図し、天文16年(1547)、一条房基の支城・長岡郡大津城の天竺氏を攻め、下田城主・下田駿河守、介良城主・横山左京亮ら長岡郡南部の国人領主を制圧。さらには天文18年(1549)頃に香美郡山田郷の楠目城主・山田基通を討ち、同郡の山間部を支配するに及び、天文22年(1553)には大忍庄槇山の専当秀家や韮山郷の窪宗安の協力を得て、大忍庄に進出した。
天文24年(=弘治元年:1555)頃に入道して瑞応覚世と号す。
この国親の勢いを恐れた香宗我部親秀は弘治2年(1556)、嗣子としていた実弟・秀通を殺害して、国親の三男・親泰を養嗣子に迎えている。この親泰が永禄元年(1558)頃に香宗我部氏の家督を相続したことにより、長岡・香美両郡の南部を支配圏に収めた。
他方、土佐郡朝倉城を根拠とした本山氏勢力と接してしばしば紛争があったが、永禄3年(1560)に国親の兵糧船が本山氏の支城・潮江の兵に奪われたことを理由に、同年5月に長浜城を奇襲策によって奪取した。さらには救援に赴いた本山茂辰を長浜戸ノ本に破り(長浜表の合戦)、敗走した本山勢の籠もった浦戸城を包囲、攻略した。
しかし6月になると急病に斃れ、6月15日に岡豊城にて病没した。享年57。国親は死に臨み、「本山を討つよりほかに供養なし。喪が明けたのちは喪服を甲冑に替え、軍議をせよ」と遺言したという。