本山茂辰(もとやま・しげとき) ?〜?

土佐国の国人領主。本山茂宗(梅慶)の子。式部少輔。土佐国長岡郡本山城主。
所領を接する長宗我部氏とは父祖の代から不仲であり、父・茂宗が永正5年(1508)5月に長宗我部兼序の拠る岡豊城を攻撃して兼序を滅ぼしたが(岡豊城の戦い)、土佐国司・一条房家の斡旋で永正15年(1518)に兼序の遺児・国親に所領を返還して表面上は和睦し、のちには国親の長女を妻に迎えた。
その後の勢力拡大にともなって朝倉城に移った茂宗より本山氏の本貫地である本山城を譲られ、天文9年(1540)には土佐国吉良氏の吉良宣直を討って吾川郡広岡(吉良)城を奪ったのちは吉良姓も称し、土佐国中央部の実質的支配を行った。
天文年間の中期には一条氏とも干戈を交えるようになり、弘治年間になると台頭してきた長宗我部国親との対立も再燃するが、永禄年間の初期には高岡郡の南域にも侵出している。
永禄3年(1560)5月の長浜表の合戦で長宗我部勢に敗れ、国親の病没によって窮地を逃れるも、永禄5年(1562)9月には国親の嫡子で義兄弟にあたる長宗我部元親によって拠城・朝倉城を攻められ(朝倉城の戦い)、翌年1月には朝倉城を棄てて本山城に退去した。
この劣勢に家中から離反して長宗我部氏に降る者が続出、統制に苦しむ中の永禄7年(1564)には瓜生野に後退したが大勢を覆せぬまま病没した。