朝倉(あさくら)城の戦い

永禄3年(1560)5月の土佐国での長浜表の合戦ののち、本山茂辰は浦戸城を捨てて朝倉城へ入っていた。本山氏の本拠は本山城であるが、地理的に機動性のある長浜城・浦戸城・朝倉城を土佐国平野部への前線拠点としていたのである。
永禄5年(1562)9月16日、家督を相続したばかりの長宗我部元親が3千の兵を率いて朝倉城に攻撃をかけた。
戦いは16日から18日まで続いたが、17日の戦いでは茂辰の子・親茂の見事な活躍もあって、攻め込んだ長宗我部軍が崩れたち、逆に神田城に追い込まれるという一幕もあった。18日には長宗我部勢は城を打って出て再び朝倉城に迫ったが、この日の戦いは特に激しく、朝倉城から迎撃に出た本山勢と鴨部の宮の前で遭遇戦となり、本山方の死者は343人、長宗我部方は511人という凄まじいものであった。しかし、双方ともに決定的な打撃を与えるまでには至らず、元親は本拠の岡豊城に兵を退いたのである。

兵は退いたが、元親は朝倉城内部への工作を続けた。茂辰家臣への懐柔策である。これが功を奏して味方同士で互いを疑うようになり、厭戦気分が広がったことにより朝倉城を支えることが困難となったため、翌永禄6年(1563)年1月10日、本山氏は朝倉城を焼き払い、本山城に撤退した。