本山親茂(もとやま・ちかしげ) 1547?〜1586?

土佐国の国人領主。本山茂辰の嫡男。母は長宗我部国親の長女(長宗我部元親の姉)。初名は貞茂。太郎左衛門尉と称し、のちに将監。土佐国長岡郡本山城主。
『土佐物語』によれば骨格は逞しく心は剛直、弓の名手であったと伝わり、永禄5年(1562)9月に長宗我部元親に土佐郡朝倉城を攻められたとき(朝倉城の戦い)、ただ一騎で大門を開き、堂々と口上を述べて元親に矢を射かけ、その矢は元親が着用していた具足の草摺りの裏まで突き通したという。
この戦いで奮戦して長宗我部軍を退かせるも、その後の長宗我部氏の工作によって朝倉城の維持が困難となり、翌永禄6年(1563)1月に父・茂辰らとともに本貫地の長岡郡本山城に撤退したが、その後も勢力を回復させることはできず、永禄7年(1564)に本山城を捨てて瓜生野に後退。
永禄9年(1566)閏8月より発給文書が見られることから、その以前に本山氏当主の地位に就いたとみられ、こののちも長宗我部氏への抗戦を続けたが、元亀元年(1570)に至って長宗我部氏に降って家臣となった。
一族分として給与された知行地は73町余ともいい、「親茂」と改名した時期は不詳ながらも元親の偏諱を受けたものとも考えられることなどから、厚遇されていたことがうかがえるが、天正14年(1586)12月12日、豊後国戸次川の合戦で戦死したという。