長宗我部兼序(ちょうそがべ・かねつぐ) ?〜1508

土佐国の国人領主。長宗我部氏第19代当主。第18代・長宗我部雄親の子。元秀とも称す。宮内少輔・信濃守。土佐国長岡郡岡豊城主。
長宗我部氏は第16代の文兼が応仁2年(1468)に応仁の乱の戦禍から逃れてきた前関白・一条教房を岡豊城に迎えたという経緯から中央政権との関わりが濃く、兼序前半生の治世は家臣団の信望も厚く、永正元年(1504)9月には吉良・森氏らの国人領主の支持を受け、土佐郡の鴨部社を再建してその結束を示している。
しかし香美郡の山田氏との抗争が続き、また土佐守護の細川氏や土佐国司を称するようになった一条氏の権威を笠に着て他の領主らへの態度が横柄だったともいい、永正4年(1507)6月に細川政元が暗殺されたことでその後ろ楯を失うと、国人衆の支持も失って孤立した。
永正5年(1508)5月になると兼序に反発する本山茂宗・山田元義・吉良宣忠・大平元国ら諸領主が連合、この連合軍に岡豊城を包囲された。これを受けた兼序は緒戦には城から出て戦って戦況を優勢に進めるも次第に城に追い籠められ、ついには糧道を断たれて落城、5月26日に自害した(岡豊城の戦い)。
しかし落城前に嫡子・千雄丸(のちの長宗我部国親)を城中から逃がし、幡多郡中村に居住していた土佐国司・一条房家(一条教房の子)にその将来を託して再興を願った。