一条教房(いちじょう・のりふさ) 1423〜1480

公卿。関白・一条兼良の長子。母は中御門宣俊の女。土佐国一条氏の祖。
永享10年(1438)に元服。
長禄元年(1457)に左大臣となり、翌年に関白・氏長者に補せられたが、寛正4年(1463)に辞職。
応仁の乱の勃発に際して父・兼良と共に弟の興福寺大乗院門跡・尋尊を頼って奈良に避難したが、応仁2年(1468)9月、家領回復のため土佐国に下向し、長宗我部文兼ら国人領主に迎えられた。
土佐下向の当初は長宗我部氏の居城である長岡郡岡豊城を座所としていたが、のちに他の領主らの支持も得て、幡多郡中村に移って土佐国司としての地位を固めた。1万6千貫の所領を有したという。
文明12年(1480)10月5日に病没し、妙華寺に葬られ、妙華寺殿と諡された。法名は宗恵。
和漢の才識は、学者として名高い父に劣らずと評された。