吉良親貞(きら・ちかさだ) 1541〜1576

長宗我部一族。長宗我部国親の二男。長宗我部元親の弟。左京進・播磨守。
永禄3年(1560)5月の長浜表の合戦には兄・元親と共に従軍し、この合戦で奪取した浦戸城の城代となった。
永禄6年(1563)1月、長宗我部勢に攻められた本山茂辰が朝倉城から退去したことに伴って(朝倉城の戦い)、それまで本山氏の属城だった吾川郡弘岡の吉良城を守っていた兵も退去したためこの城を乗っ取り、吉良氏の名跡を継承した。
永禄12年(1569)7月の安芸城の戦いには弟・香宗我部親泰と共に先陣を勤め、同年11月には土佐国一条氏に属していた高岡郡蓮池城を謀略を用いて攻略。ついで戸波城を陥落させ、高岡郡久礼城の城主・佐竹信濃守を内応させるなど、幡多郡方面への侵攻を担った。
天正2年(1574)に一条氏に内紛が起こり、一条兼定が豊後国へと逐電し、その継嗣・一条内政が大津城に移って長宗我部氏の庇護を受けることになると、中村城代となって幡多郡一円の統治を管掌した。
天正4年(1576)7月15日に死去した。36歳。