土佐国司・一条房基の子。母は大友義鑑の女。幼名を万千代。康信とも。従三位・権中納言。
天文21年(1552)に従三位に叙任。天正元年(1573)には権中納言となるが、直ちに辞職した。
父の跡を継ぎ国司となり土佐国幡多郡を領す。
永禄8年(1565)以来、大友宗麟の支援を受けて伊予国の西園寺公広と戦う。しかし失政や放縦な性格のため家臣に背かれ、天正2年(1574)、家臣の合議や長宗我部元親の強迫により家督を子の内政に譲らされ、義兄弟にあたる大友宗麟を頼って豊後国臼杵に逃れた。
天正3年(1575)、同地でキリスト教宣教師・ジョアン=カブラルから洗礼を受け、パウロと称す。
同年7月頃に、密かに伊予国を経て土佐国に戻り、領土回復を期してかつての所領である中村を目指したが、元親の兵に攻められて敗走した(四万十川(渡川)の合戦)。
このときに討死したとか、のちに旧臣に殺害されたともいうが、天正13年(1585)に病没したというイエズス会士の書簡による記録がある。