一条内政(いちじょう・ただまさ) 1557〜1580

土佐国司で土佐国幡多郡中村に住した一条兼定の子。幼名は万千代。
天正2年(1574)2月に父・兼定が失政のため家臣団によって豊後国に追放されたのち、長宗我部元親を後見役として擁立された。
このときに一条家中で内紛が起こり、これに介入した元親の意向により長岡郡大津城に移された。中村の地は元親の弟・吉良親貞が治めることとなったが、内政は元親の娘を妻として大津御所と称され、厚遇を受けた。
しかし天正8年(1580)に元親への謀叛を企てた波川清宗(玄蕃)に加担したため追放に処され、伊予国宇和郡の法華津播磨守を頼った。
子の政親は久礼田定祐に養育されて「久礼田御所」と称されたが、ここに一条教房が応仁2年(1468)に下向して以来の土佐国一条氏は没落した。