安芸(あき)城の戦い

土佐国東部の安芸郡では、安芸国虎が着々と勢力を伸ばしつつあった。郡内西部を領していた和食氏を滅ぼし、安芸郡を掌中に収め、その余勢を駆って香美郡南部を支配下に収めていた香宗我部氏を攻めて圧倒した。そこで香宗我部氏の当主・親秀は安芸氏の脅威から家を守るため、後継者であった弟の秀通を殺し、長宗我部国親の三男・親泰を養子として迎え入れ、その傘下に入ったのである。
こうした経緯から長宗我部氏と安芸氏は勢力を接することになり、一触即発の関係となった。長宗我部氏が本山氏と争っている間は、長宗我部氏・安芸氏の衝突はなかったが、長宗我部元親が本山氏を倒し、土佐国中央部の長岡・香美・土佐・吾川の4郡を手中に収めた頃から、両家の雰囲気は険しくなってきたのである。

永禄12年(1569)4月、元親から「和睦のため、岡豊城に来てほしい」という書状を受け取った国虎は、それを元親の謀略と受け止め、ついに戦うことを決めたのである。国虎は長宗我部勢に備えるため、安芸郡の諸将に召集を命じた。これに馳せ参じた兵力は5千3百余といわれている。
対する元親は、7千余の軍勢を率いて7月に岡豊城を出発した。まず先陣の吉良親貞と香宗我部親泰が香美郡姫倉城を攻め落とし、ついで長宗我部右兵衛(戸波親武)と比江山親興が2千余の兵で金岡城を攻めるなど、長宗我部勢は優勢を保ちながら進軍を続けた。
いったんは和食に集結したあと隊を二手に分けて、一隊は山手から間道を通って安芸城背後の内原野に出た。もう一隊は浜伝いに安芸城を目指して進軍、難所の矢流山での戦闘で安芸勢を破り、その勢いで新荘・穴内の2つの支城をも陥落させ、さらに安芸城へと進んだ。
安芸氏の敗色が濃くなってくると、安芸城内から内応者が出始めた。元親はこの内応者に案内させて城の搦め手から総攻撃をかけたのである。さらには城内の井戸に毒を入れられたこともあって8月11日、籠城戦24日目にしてついに安芸城は落城したのだった。
国虎は、自身の切腹を条件に城兵の命乞いを行い、これが認められると城外の浄真寺にて切腹して果てた。