十河存保(そごう・ながやす) 1554〜1586

名の読みを「まさやす」とも。三好一族。三好義賢の子。三好長治の実弟。通称は孫六。隼人正・河内守・民部大輔。
叔父である十河一存の養子となり、永禄4年(1561)に一存の死去したことにより讃岐国十河城主となり、のちに讃岐国虎丸城に移る。
元亀元年(1570)7月、織田信長に抗戦する三好三人衆に属して摂津国に出陣したが(野田・福島の合戦)、同年の暮れ頃には和議を結んだ。翌年に三人衆が再び信長に敵対した際の存保の行動は不詳であるが、天正元年(1573)頃には信長に属している。
兄・長治が没したのちの天正6年(1578)1月には阿波国の勝瑞城主を兼ね、阿波・讃岐国における三好・十河氏の領国統治を管掌した。
この間の天正4年(1576)頃より土佐国の長宗我部元親との抗争が激化していたが、天正10年(1582)6月に信長が横死すると後ろ楯を失い(本能寺の変)、これに乗じて侵攻してきた長宗我部勢の攻勢を受けて同年8月の中富川の合戦で敗れ、翌月には勝瑞城を開城して虎丸城に逃れた。その後も長宗我部勢の攻勢は続けられ、天正12年(1584)6月に十河城、8月に虎丸城が陥落すると大坂に逃れて羽柴秀吉を頼った。
翌天正13年(1585)6月、羽柴秀長を総大将とした四国征伐軍が編成されるとこれに属し、戦後に十河城3万石を安堵された。
天正14年(1586)の九州征伐においては仙石秀久や長宗我部元親らと共に先遣隊として派遣され、同年12月の戸次川の合戦で討死した。享年33。