十河一存(そごう・かずなが) ?〜1561

名の読みを「かずまさ」とも。三好一族。三好元長の四男。三好長慶三好義賢安宅冬康の弟。民部大輔・讃岐守。
讃岐国山田郡十河城主・十河景滋の養子となり、その家督を継承する。
松永長頼と共に三好氏の軍事力の要として摂津国をはじめ畿内各地に転戦、一存はとくにその武勇から『鬼十河』と称された。
長慶が管領・細川晴元と対立し、三好一族で晴元の麾下であった三好政長と戦った天文18年(1549)6月の摂津国江口の合戦(榎並城の戦い)では猛攻によって政長を敗死させ、細川晴元政権を崩壊させて幕府将軍の足利義晴義輝父子を近江国へと逐った。
この後は和泉国岸和田城主となって畿内南域の防備にあたり、永禄2年(1559)5月頃、河内守護・畠山高政を逐った安見直政の討伐に向かったが、大敗を喫している。
永禄4年(1561)5月1日(4月や3月18日とも)に病没。永禄3年(1560)の冬、湯治先の有馬温泉で落馬したのがもとで死去したとも伝わるが、不詳である。法名は清光院殿春月宗円禅定門。
遺児・熊王丸(のちの三好義継)は長慶に養育され、長慶の死後に三好氏当主に立てられたため、十河氏の名跡は兄の義賢の二男・存保が継ぐこととなった。