松永長頼(まつなが・ながより) ?〜1565

三好家臣。松永久秀の弟。通称は甚介。丹波守護代・内藤国貞の娘を妻とした。後年には内藤姓も用い、入道して蓬雲軒宗勝と号したことから、内藤宗勝とも称される。
兄・久秀と同様に出自不詳であるが、天文18年(1549)7月までには三好長慶に仕えており、その優れた軍事能力を重用されて累進を重ねた。天文20年(1551)頃には一軍を率いる大将格となっており、主に京都や丹波国の防衛にあたった。
三好政勝らが京都に侵攻してきた天文20年7月には迎撃軍の総大将となってこれを撃退した(相国寺の戦い)。
天文22年(1553)9月、三好長慶の命を受けて波多野晴通の拠る丹波国八上城を攻めたが、この間に養父・内藤国貞の守る八木城が三好政勝・香西元成の攻撃を受けて陥落すると急遽軍勢を返して八木城を奪還し、一躍武名を轟かせた。この八木城陥落の際に国貞が討死し、そのあとは国貞の遺児・千勝丸が継いだが、その後見と称して内藤氏と丹波守護代の地位を掌握した。
三好氏が弘治3年(1557)秋に波多野晴通を降して氷上郡を除く丹波国を制圧したのちは、実質的な国主として統治した。
永禄2年(1559)と永禄3年(1560)、河内国高屋城の畠山高政を攻めるために従軍。また、永禄5年(1562)5月にも畠山氏と戦うために河内国に出陣した。
永禄8年(1565)8月2日、丹波国黒井城の攻囲中に赤井直正に討たれて敗死した。
キリシタン大名として知られる内藤如安は、長頼の実子または養嗣子とみられる。