天文18年(1549)6月の江口の合戦(榎並城の戦い)で三好長慶に敗れ、重臣の三好政長を失った管領・細川晴元は、室町幕府将軍の足利義晴・義輝父子を奉じて近江国に逃れ、六角定頼を頼った。
その翌年7月には京都への復帰を目論む義輝が細川・六角両氏の支援を得て山城・近江国境付近の中尾城に挙兵するが、11月下旬に至って三好勢の圧迫を支えきれずに中尾城を自焼して再び近江国堅田へと逃れた(中尾城の戦い)。
天文20年(1551)2月7日、長慶は義輝をさらに威圧するべく松永長頼に命じて志賀峠から近江国へと侵入させて背後を脅かそうとし、この軍勢は近江国蒲生郡の観音寺城から琵琶湖を渡って駆けつけた六角義賢の軍勢によって撃退されたが、義輝は同月10日、奉公衆の朽木氏を頼って近江国高島郡の朽木へと移ったのである。
京都への復帰がさらに遠のいた義輝は、同年3月の4日と14日の2度に亘って刺客を放ち、長慶の暗殺を試みる。このなりふり構わない策は両度とも失敗に終わったが、3月15日には丹波国から香西・柳本・宇津といった細川晴元の被官に加え、三好政長の遺児・三好政勝が洛中に進出した。これは、14日の義輝による刺客の派遣と細川晴元方の攻勢が連動していたことを示す。この軍勢は郷村に火を放って引き上げるという示威行動に止まったため、大きな衝突には至らなかったようである。
そして同年7月14日、細川勢が再び京都へと進撃する。その陣立ては3月のときの三好政勝・香西・柳本諸氏に加えて近隣の土豪である山城国岩倉の山本氏や近江国志賀の山中氏、政長遺臣や丹波国衆を加えた3千ほどの兵であった。この軍勢は船岡山から南下して上京の相国寺に陣を構えたが、これに対する三好方は直ちに領国の摂津・和泉・阿波国などから兵を集め、松永久秀・長頼兄弟が指揮を執って相国寺を包囲した。その勢は4万ほどであったという。
細川勢の10倍以上の兵力を擁する三好勢は一斉に相国寺に攻めかかり、14日の夜には寺内の各所で撃ち合いや斬り合いが行われたが、数に劣る細川勢は抗しきれずに15日の払暁に丹波国方面へと撤退した。この戦いで相国寺は炎上、その伽藍のほとんどが灰燼に帰したという。
先だっての江口の合戦や中尾城の戦い、そして今回の相国寺の戦いにおいても三好氏の軍事力は細川晴元や足利将軍家を圧倒したが、構造を変えずして中央政局を実質的に運営するには未だ将軍という権威を戴く必要があった。このため長慶は六角氏が斡旋する将軍家との和睦に応じ、翌天文21年(1552)1月に義輝を京都に迎え入れている。
当初こそは将軍を推戴するも、のちにはその権威を不要なものと見なし、それまでの体制を否定する織田信長が京都に君臨するのはこの16年後、永禄11年(1568)9月のことである。