畠山高政(はたけやま・たかまさ) 1527〜1576

畠山政国の嫡男。通称は二郎。修理亮・紀伊守・尾張守・播磨守。河内国高屋城主。河内・紀伊国の守護。
天文19年(1550)8月、父・政国の死去によって畠山氏の家督と河内・紀伊国の守護職を継承。
天文20年(1551)5月に畠山家中の実権を握っていた遊佐長教が暗殺されると、翌年に長教の被官であった安見直政を守護代に登用した。
天文22年(1553)の霊山城の戦いには三好長慶に与力した。
のちに台頭した安見直政と対立するようになり、永禄元年(1558)11月末、安見氏の襲撃を恐れて和泉国堺、ついで紀伊国の広城へと逃れた。
永禄2年(1559)7月末頃、長慶や紀伊国の国人領主・湯川直光の援けで安見直政を破って高屋城を奪還し、復位した。しかし高政は半年ほどで直政と和して守護代に再任したため、これを口実に長慶から圧迫され、高政は高屋城、直政は飯盛城に拠って抗戦するも、両者ともに永禄3年(1560)10月末に降伏して堺、ついで紀伊国へと落ち延びた。
永禄4年(1561)7月、六角義賢の檄に応じて紀伊国の根来寺宗徒と共に長慶を挟撃、永禄5年(1562)3月には和泉国久米田の合戦三好義賢を敗死させて三好勢を切り崩し、高屋城を奪回。ついで長慶が本拠としていた河内国飯盛城を攻めたが、5月の教興寺の戦いで敗れて再び紀伊国に逃亡した。
永禄7年(1564)に長慶が没して三好氏が三好三人衆陣営と松永久秀陣営に分裂すると松永方に与し、永禄9年(1566)2月には松永久秀に呼応して河内国に侵攻して三好三人衆と戦ったが敗れ、安見直政とともに堺に逃れたが、同年中には三人衆と和睦して河内国に復帰したようである。
永禄11年(1568)9月末、織田信長の入京に際して降伏して河内国南半を安堵され、高屋城に復帰したが、翌永禄12年(1569)に専横を揮う重臣・遊佐信教(長教の子)を除こうとして失敗、逐われて紀伊国の岩室城に逃れ、信教は高屋城で高政の弟・昭高を擁立する。
天正元年(1573)6月、信教が昭高を殺害したとして信長の援助を得て挙兵したが、信教は三好康長本願寺顕如と組んで抵抗。天正3年(1575)4月に至って高屋城は陥落したが、信長はこれを破却したため、高政は失意して天正4年(1576)10月15日に病没した。享年50。河内国錦部郡観心寺に葬られ、法名は多宝寺高旭空林。