久米田(くめだ)の合戦

永禄4年(1561)7月下旬、近江国の六角義賢が京都を掌握していた三好長慶に対して挙兵した。その名分は、長慶によって没落させられた前管領・細川晴元の二男・晴之を細川京兆家(管領家)の家督につけるため、というものであった。
義賢は永原重隆らを勝軍地蔵山(瓜生山)に進駐させて京都を窺う一方で、かつて長慶によって逐われて紀伊国に逼塞していた前河内守護・畠山高政に檄を飛ばし、これに応じた畠山軍は7月23日、紀伊国の国人領主や根来寺宗徒らと共に風吹峠を越えて紀伊国から和泉国へ侵攻し、長慶の弟・安宅冬康が守る和泉国岸和田城を攻囲するという両面作戦を展開したのである。
この報を受けた長慶は、自らは河内国飯盛城にあって全軍の指揮を執ることとし、勝軍地蔵山の軍勢には嫡子・義興と重臣の松永久秀に防衛させ、河内戦線には弟で河内国高屋城主の三好義賢(号を実休。以下、六角義賢と三好義賢の混同を避けるため、この項目については実休と記す)を大将に、一族の三好康長・三好政康を添え、さらには篠原長房に命じて阿波・淡路国からも兵を岸和田に派遣して対抗したのである。

三好実休は長慶の命を受けて岸和田の後詰に向かったが、攻囲を受けていた岸和田城に入ることができなかったために久米田寺の境内を本陣とし、畠山軍を牽制するに留まった。兵数は史料によって相違があるが、三好実休軍が7千、畠山軍が1万ほどと見られる。
11月24日には六角軍と畠山軍が連携し、京都と久米田の両戦線において同日の総攻撃に及んでいるが、どちらの戦線でも目覚しい戦果を挙げることはできなかった。しかし久米田戦線においては三好方の損害がやや大きかったようである。
戦況は膠着し、対陣は年を越しても続けられていたが、永禄5年(1562)3月5日に至って畠山高政・安見直政・遊佐信教・根来寺宗徒らの畠山軍が、疲れの見えた久米田の陣に総攻撃を仕掛けたのである。
はじめ三好方は篠原長房隊の奮戦によって持ちこたえていたが、畠山軍の新手によって篠原隊が崩され始めたため、三好康長・政康らが加勢に打って出た。ところが、これによって本陣が手薄になってしまい、そこを畠山軍に狙われたのである。大将の実休は退却を勧められたがこれを容れようとせず、ついには根来寺宗徒の放った鉄砲による銃創が致命傷となって戦死を遂げたのである。
実休の辞世の句は「草枯らす霜また今朝の日に消えて 報ひのほどは終に免れず」と伝わるが、この「報ひ」とは、かつて阿波守護・細川持隆を殺した因果であることを死の直前に悟ったものといわれる。
このとき長慶は飯盛城下の屋敷で連歌会を催しており、その最中に飛脚によって実休戦死を知らされたが落ち着き払った態度で連歌会を続け、百韻を詠み終わったところで初めて変事を告げ、来会者に早急に帰宅することを促したという。

大将が戦死したことで三好軍は総崩れとなり、岸和田城の冬康もが城を捨てて淡路国に逃亡しただけでなく、高屋城の守備兵も逃亡した。これによって高政は和泉国とかつての居城であった高屋城周辺の所領を回復したのである。
また、この情報を得た京都戦線では三好軍が兵を退いたため、翌6日には六角軍が洛中に進駐することとなった。