三好一族。三好元長の三男。三好長慶・三好義賢の弟。十河一存の兄。通称は神太郎。摂津守。淡路国炬口(たけのくち)城主。
淡路国は守護・細川尚春が三好之長(冬康らの曽祖父)に滅ぼされた永正16年(1519)前後より三好氏が実質的に掌握、三好氏の本貫地である阿波国と政界での活躍の場となる畿内を結ぶ中継点となる。冬康はこの淡路国の有力国人領主・安宅氏の猶子となって家督を継ぎ、淡路水軍を管掌して三好氏の後方支援に活躍した。
天文16年(1547)7月、長兄・長慶に従って河内国に出陣し、細川氏綱・遊佐長教らと戦った(舎利寺の合戦)。また、天文17年(1548)から翌年にかけて長慶が三好政勝の拠る摂津国榎並城を攻めた際にも出陣し、榎並城の救援に赴いた政勝の父・三好政長の退路を断っている(江口の合戦)。
永禄4年(1561)4月に和泉国岸和田城主だった弟・一存が没したのちはその守備も任されるようになったが、同年7月頃より畠山高政の攻囲を受け、来援した次兄・義賢が永禄5年(1562)3月の久米田の合戦で戦死すると、城を棄てて阿波国に逃れた。しかし5月には結託した一族衆と共に、畠山勢と戦うために河内国に帰還した(教興寺の合戦)。
永禄7年(1564)5月、謀叛の疑いありとして兄・長慶に誅殺された。松永久秀の策謀によるものともいわれる。
歌と書に優れ、茶の湯を好んだ文人でもあった。また慈悲深い武将であったと伝わり、天文22年(1553)に長慶が将軍・足利義輝を近江国に追放して驕っているのを憂えて、長慶に鈴虫の入った籠を贈って命の尊さを諫めたという逸話が残る。