三好義賢(みよし・よしかた) 1526~1562

阿波国細川氏の重臣・三好元長の二男。三好長慶の弟。幼吊は千満丸。吊を之康・之虎・元康とも。豊前守。薙髪して物外軒実休と号した。
天文13年(1544)に入京し、天文16年(1547)に河内国舎利寺にて細川氏綱方の河内守護代・遊佐長教と戦って大勝する(舎利寺の合戦)。兄・長慶が畿内に進出したあとは阿波国に在って後方をよく守り、また、弟の十河一存が和泉国岸和田城主となってからは讃岐国も支配した。
天文22年(1553)6月、阿波守護であり三好氏の庇護者でもある細川持隆を勝瑞城下の見性寺で暗殺してその妾と領地を奪い、持隆の子・真之を新たな国主として立てた。その後、芝原城主の久米義張と佐野丹波らに復仇戦を挑まれるがこれを撃退、討ち取る。
永禄元年(1558)8月、足利義輝細川晴元と訣別した長慶に応じて阿波・讃岐の兵を率いて兵庫浦を経て堺に入るが、義輝と長慶が和したため12月に帰国。
永禄3年(1560)6月、河内守護・畠山高政の討伐を目論む長慶に応じて阿波・讃岐・淡路の兵を率いて河内国を転戦し、10月には畠山氏重臣・安見直政の拠る飯盛城を降している。飯盛城に続いて畠山氏の本城である高屋城が陥落すると、ここを本城として河内国の支配を任された。
永禄4年(1561)閏3月には幕府御相伴衆となるが、7月より幕府の義賢討伐令を受けた畠山高政と根来寺宗徒の連合軍と戦い、翌年(1562)3月5日、根来寺宗徒の鉄砲の流れ弾に当たって落命した(久米田の合戦)。享年37。
武辺に優れた勇将として知られるが、茶道を武野紹鷗や千利休に学んだ茶人でもあった。