細川真之(ほそかわ・さねゆき) 1542?〜1582

細川氏阿波守護家・細川持隆の子。母は持隆の側室・小少将。天文11年生まれか。通称は六郎。掃部頭。阿波国勝瑞城主。
天文22年(1553)6月に父・持隆が家臣の三好義賢(実休)に殺され、母はその義賢の妻となり、その義賢によって阿波守護家の当主に擁立された。しかし真之は義賢、義賢が永禄5年(1562)3月に戦死したのちには義賢の子で異父同母弟にあたる三好長治に擁された傀儡の当主でしかなく、実質的に阿波守護家の領国は三好氏によって治められて真之に実権はなかった。
永禄9年(1566)、空位となっていた将軍職に、阿波国に在った足利義栄を就けようとして畿内に出兵した際、三好長治や篠原長房に擁されて同行したようである。義栄は永禄11年(1568)2月に14代将軍となるが、同年9月末に織田信長足利義昭を擁立して畿内に進出すると抗し得ず、阿波国に撤退した。義栄もこれと前後して病没している。
元亀元年(1570)9月末、摂津国にて織田勢と対峙していた三好三人衆を支援するため三好長治とともに阿波・讃岐の兵を率いて出陣、10月1日には摂津国中島に着陣したが、織田勢は既に撤兵したあとだったので戦うこともなく、翌年1月末に帰国した。
天正元年(1573)7月、篠原自遁の讒言を受けて篠原長房を謀反の咎で麻植郡の上桜城に攻めて討ち取る。
天正4年(1576)12月5日、長治の専横を嫌ってのことか、居城の勝瑞城を捨てて那賀郡の仁宇山に拠って独立を図った。これに怒った長治は天正5年(1577)3月に真之を討つべく出陣したが、真之は被官の一宮成祐・伊沢頼俊らの支援を受けて撃退し、長治を敗死に追い込んだ。
翌天正6年(1578)1月、長治の実弟・十河存保が勝瑞城に入ってその地位を継ぐが、一宮成祐が土佐国の長宗我部元親に支援を要請。これが長宗我部氏に阿波国侵攻の名分を与えることとなる。元親は天正10年(1582)8月の中富川の合戦で十河勢を破って阿波国の要所をほぼ制圧するところなり、真之は同年10月8日に仁宇山の茨岡で自殺したという。近隣土豪の反逆を受けたためとされるが、長宗我部氏が唆した可能性も考えられる。享年41か。