足利義栄(あしかが・よしひで) 1540?〜1568

足利義維の嫡男として阿波国に生まれる。母は周防国大内義隆の娘。初名は義親。
足利義輝(13代将軍)・義昭(15代将軍)兄弟の従兄弟にあたる。
父の義維は11代将軍・足利義澄の二男で、12代将軍となった足利義晴の弟にあたる。義維自身は一時的に室町幕府に代わる新政権(いわゆる堺幕府)を発足させるも将軍位に就くことは叶わず、10代将軍・足利義稙の養子となって阿波へと移り、阿波公方または平島公方と呼ばれた。
永禄8年(1565)5月、当時の将軍であった足利義輝を殺した三好三人衆は義栄を新将軍に擁立して実権を握ろうとした。しかし松永久秀と衝突、三好家中において内部抗争が起こり、互いに決定的利益を得ることができぬままに闘争を続ける。
永禄9年(1566)12月、義栄と改名。
永禄11年(1568)2月8日、摂津国富田に移っていた義栄は第14代の征夷大将軍に就任。しかし同年9月、腫物を患って同地で病死した。また、足利義昭を奉じて織田信長が上洛すると阿波国に逃れ、10月に病死したとする説もある。