(本願寺)顕如(ほんがんじ・けんにょ) 1543〜1592

浄土真宗本願寺第11世法主。第10世証如の長子。天文12年(1543)1月6日に生まれる。幼名は茶々。諱は光佐。法眼・僧正。
天文23年(1554)、父・証如の死去の跡を受けて住職となり、永禄2年(1559)に正親町天皇より門跡に補された。その翌年、院家(門跡寺院を助ける寺)に補任する勅許があり、本願寺派として初めて本宗寺・願証寺・顕証寺を院家とした。
永禄4年(1561)、親鸞の三百回忌を十昼夜に亘って挙行した。これ以後、親鸞の大遠忌は十昼夜が例となったという。
一向宗は信徒の中心を農民に求め、その信徒らは大名による支配と争ってきたが、顕如自身は無抵抗を唱え、大名との政治的交渉に頼っていた。しかし元亀元年(1570)に至って織田信長が石山本願寺の明け渡しを要求してきたため、遂に11年間に亘る武力抗争を開始した。これが石山合戦と呼ばれるものである。
顕如は越前・加賀・伊勢・紀伊など各地で門徒による一向一揆を扇動し、武家勢力では甲斐武田氏・越後上杉氏・相模北条氏・安芸毛利氏・越前朝倉氏・近江浅井氏・畿内三好党・紀州雑賀衆らと結んで信長包囲網を形成するなど、信長を大いに苦しめた。
しかし戦況は次第に苦しくなり、天正8年(1580)に正親町天皇の勅使・近衛前久らの交渉を受けて信長と和し、紀伊国鷺ノ森へと退去した。以後は大名同士の抗争には加わらぬように務め、本願寺を守ることに専心したという。
信長の死後は羽柴秀吉と友好的な関係にあり、京都七条堀川の地をはじめとして、しばしば寺領の寄進などを受けた。
天正11年(1583)7月には和泉国貝塚に移る。
天正15年(1587)12月6日、三男の准如を第12世法主(後継者)に定めた。
天正20年(=文禄元年:1592)7月、京都に本願寺を移転。これが現在の西本願寺である。
同年11月に中風を患い、24日に没した。50歳。墓所は京都市東山区の大谷祖廟。諡は信楽院。
顕如の死後は長男・教如が継職したが、文禄2年(1593)10月、秀吉は准如に継職の証状を与えて後継者としたが、徳川家康は教如を支援し、秀吉の死後に東本願寺を建立させたため、本願寺が分立することとなった。