内藤如安(ないとう・じょあん) ?〜1626

松永長頼の子、または養嗣子。松永久秀の甥にあたる。諱は忠俊。別称を小西如安(如庵)。飛騨守・従五位下。号を徳庵とも。丹波国船井郡八木城主。
キリシタン武将であり、洗礼名はドン=ジョアン。通り名の「如安」は洗礼名の当て字か。
永禄7年(1564)に宣教師ルイス=フロイスから洗礼を受け、キリシタンとなる。
天正元年(1573)、将軍・足利義昭の救援に上京したため、義昭を駆逐した織田信長に所領を没収された。
のち羽柴秀吉に仕えて小西行長の与力に付され、天正20年(=文禄元年:1592)より始まる文禄の役では行長と共に渡海しており、朝鮮・明国との和平を模索する行長の命を受けて講和交渉に奔走した。この交渉においては文禄2年(1593)7月頃より日本側の使者として国書を携えて北京に向かったが、明への入国手続きや和平案の調整などで手間取ったため、北京入りが実現したのは文禄3年(1594)12月になってからのことであった。しかし、この苦難も虚しく交渉が決裂したために朝鮮再征(慶長の役)が決定された。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役で西軍に与して敗れた行長が処刑されたのち加藤清正に仕えるが、同じくキリシタン武将であった高山重友の斡旋により、重友と共に加賀国前田家の客将となる。
慶長19年(1614)、徳川幕府からキリスト教禁止令が出されると同年9月24日、宣教師や重友らと共にマニラに追放され、寛永3年(1626)の末、同地で死去した。