井伊直孝(いい・なおたか) 1590〜1659

井伊直政の二男。井伊直継(別称を直勝)の異母弟。母は井伊家臣・印具徳右衛門の娘。天正18年(1590)2月11日に生まれる。通称は弁之介。正四位上・掃部頭・侍従・左中将。近江国彦根藩主。
慶長8年(1603)より江戸幕府2代将軍・徳川秀忠に仕え、慶長10年(1605)に従五位下・掃部助。慶長13年(1608)に書院番頭として5千石、慶長15年(1610)には大番頭に任じられて5千石の加増を得て上野国白井に1万石を領し、掃部頭を称した。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣には、兄・直継に代って出陣した。これは直継が病身だったためとされるが、直孝が直継よりも器量に優れていたため、ともいう。
父・直政が慶長7年(1602)に没したあとは嫡男の直継が井伊氏の家督を継いで近江国彦根藩主となっていたが、慶長20年(=元和元年:1615)2月、秀忠の父・徳川家康は直孝を彦根藩主に任じて15万石を知行させ、直継を上野国安中で3万石に封じるという沙汰を下した。これは実質的な家督交代であり、先述の大坂冬の陣に際しての後者の見方を裏付けるものと言えよう。
同年の大坂夏の陣では八尾・若江の合戦木村重成を討ち、その功績で戦後に5万石を加増され、従四位下・侍従に任じられた。さらに元和3年(1617)と寛永10年(1633)にも5万石ずつ加増され、近江国で28万石、下野・武蔵国で2万石を領する大大名となる。
位階においても累進を遂げ、寛永3年(1626)に少将、正保2年(1645)には4代将軍・徳川家綱の元服時に加冠役を務め、正四位上・左中将に昇進した。
この間の寛永8年(1631)頃より江戸への出府を命じられ、老臣として3代将軍・徳川家光、4代将軍・家綱の時代に亘って江戸に在って幕政に参与した。
万治2年(1659)6月28日に死去、享年70。世田谷の豪徳寺に葬られ、豪徳天英久昌院と号す。