木村重成(きむら・しげなり) ?〜1615

豊臣家臣。近江源氏佐々木氏の末裔という。出自については定かではないが、豊臣秀次の家老・木村常陸介重茲の養子となり、母の右京大夫局が豊臣秀頼の乳母という関係から秀頼に仕えたという説がある。紀伊国の地侍の子、ともいう。
幼い頃から同世代の豊臣秀頼に近侍した。容姿優れ、物静かな貴公子といった雰囲気だったと伝わる。3千石を給せられて長門守と称した。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣では、これが初陣でありながらも佐竹義宣上杉景勝の軍勢を相手によく戦い、とくに佐竹隊を劣勢に追い込む武勲を立てた(今福・鴫野の戦い)。
同年12月の講和のときには秀頼の正使として茶臼山の徳川本陣に乗り込み、圧迫的な空気の中でも怖気づくことなく徳川秀忠から誓書を受け取ったことが伝わっており、その堂々たる立ち居振る舞いを敵味方からも賞賛されている。
翌年(1615)の大坂夏の陣では5月6日に河内国若江で井伊直孝隊と戦い、戦死した(八尾・若江の合戦)。
首級の頭髪には香が焚きこめられており、覚悟のほどが偲ばれたという。